終末論的堕落ドロップス、おちり、樹、人は年を取れば取るほどダメになる、例外なくダメになる、文学的ゾンビ、
三月二日
午前十一時五九分。紅茶、賞味期限切れの芋チップス。松山千春がさだまさしの「風に立つライオン」を絶唱している夢を見る。土曜日だから図書館は行っても行かなくてもいい。だから寝間着のまま日記書きをしている。たぶん行くとは思う。ベーシックインカム論を書く準備もしているから。
きのうはコハ氏と午後二時から二時間半ほど閑談。デスクトップ画面にアイコンがごちゃごちゃしているのに我慢できないとかいった「潔癖性ミニマリスト」らしい悩みを聞く。パソコンもごちゃごちゃで自室も本でごちゃごちゃになっているオイラにはなかなか理解しがたい悩み。私は絶えざる実存不安を「モノ」で埋めていることにかなり自覚的な人間だ。むしろ何でもごちゃごちゃしているほうが落ち着く。ごちゃごちゃに親しむいっぽうで「宇宙の完全消滅」をいつも夢想している。
別れた後は閉館までシオラン『カイエ』(金井裕・訳 法政大学出版局)を読む。もう何度手にしたことか。もう俺にくれよ。やはり俺はシオランが好き過ぎる。日本でいちばんシオランを愛読しているのはたぶん俺だろう。彼は私の鏡だ。私はシオランを読むたび自分の分身をそこに見るような気がする。
こんなこじらせた文系大学生みたいなことをいい年して書き殴っているシオランを見ると気が安らぐ。彼は鋭敏な「モラリスト」でもある。苦しまない人間は下等な人間だ、と彼は信じていただろう。「苦悩する自分」に酔っていることにもそうとう自覚的だっただろう。「苦悩教」とか「憂鬱教」と聞くと私は高橋和巳よりもまず先にシオランを連想する。
以下、百均ノートに書き抜いたもの。
島田雅彦『彼岸先生』(新潮社)を読む。
二流作家にしてタレント政治家だった石原慎太郎は島田雅彦のことをずいぶん嫌っていたそうだ。「石原慎太郎に好かれる作家などにろくなやつはいない」という誰もが抱きがちの偏見は俺にもある。島田が彼と対立していたことは、島田にとっては間違いなく「名誉なこと」だろう。私は島田の小説をぜんぶ読んだわけではないし、読むつもりもぜんぜん無いのだけど、おそらく初期の「青二才」全開の作品のほうが「文学的」には上等だと思う。最初に読んだ『アルマジロ王』はあまりよく覚えていない。島田の「すごさ」を知ったのは『天国が降ってくる』を読んだときだ。(文庫なのに高価なことで不評な)講談社文芸文庫から出ていたのが印象的だった。島田はゴンブローヴィッチの『フェルディドゥルケ』をこよなく愛している。あの究極の「ダメ人間小説」だ。小説から何か教訓めいたものをひき出そうとする糞真面目で愚鈍な読者に遺憾なく唾を吐きかけるあの「アンチ教養小説」だ。要約するのはバカバカしいし不可能。
『彼岸先生』は夏目漱石『こころ』のパロディ小説。ポルノ要素過剰。文庫本の解説は蓮實重彦が書いている。そういえばこの人もポルノ小説っぽいものを書いてたね。島田はとにかくふざけることに全力を傾けている。小説家が「非真面目」であり続けることは実に大変なことなんだ。どいつもこいつも隙さえあれば「人生」を説きたがるからね。それもごく巧妙なかたちで。「お前が説くなよ」と思わせる人物までそれをやりたがる。どうもさいきんの島田にはその傾向が強いようだ。劣化・堕落というべきだろう。まあ年を取って劣化・堕落しない人間なんかいないんだけど。すべての人間は青年時代に自死すべきだ。小説から何かを学ぼうとする人間は小説を読む資格がない、と十年前の俺は書いた。いまはもうそんな骨ばったことは言えない。もう私は子供でも大人でもない。
このあと飯食ってどうしようか。部屋で別役実でも読むか。どうせ図書館はうるさいガキや自習するバカ学生や薄汚い老人どもで溢れかえっているに相違ないから。でも部屋にはあまり長くいたくない。やっぱ行こう。マントヒヒの睾丸をニンニクと一緒に炒めたい日だな今日は。スピッツの「うめぼし」聴きたいわ。