十二月三日
午後十二時五五分起床。紅茶、栄養菓子。薬は服薬しなかったけど頭の頭痛は治った。
薄田泣菫『茶話』(岩波文庫)を読む。
著者はもともと「象徴派詩人」として蒲原有明と併称されていたが、こんにちではむしろ「コラムニストの元祖」として記憶されている。渋沢孝輔によれば、彼が随筆家に「転身」したのは、明治四〇年代ごろから詩興が衰えだしたからだという。辛辣な風刺にも凡庸な訓話にも傾き過ぎぬその適温的ユーモアという点で、ヨハン・ペーター・ヘーベル(一七六〇~一八二六)の暦話(カレンダーゲシヒテン)によく似ている。「茶話」はぜんぶで約八〇〇篇あるが、本書はそのなかから著者が自選した一五四編を収録したもの。全部読みたい向きには冨山房の冨山房百科文庫から出ている『完本 茶話』(谷沢永一/浦西和彦・編)がある。冨山房なんて一部の古書好きくらいしか聞いたことがないだろうね。俺は一冊も持っていない。
「青磁の皿」という話が気に入った。そんなに長くないのでそのまま引く。
これと似たような話が、ハンガリー人の著述家ラート=ヴェーグ・イシュトヴァ―ンによる『書物の喜劇』(早稲田みか・訳 筑摩書房)にある。表題通り本にまつわる珍談奇談を集めたもので、日本語訳が抄訳であることが惜しまれるくらい。やはり短いのでそのまま引く。
この種の話は探せば世界中に見つかりそう。収集家という人種は多かれ少なかれ、「世界に一つだけしかないものを所有したい」という願望を胸に秘めている。そういえば「世界に一つだけの花」という歌の詞に、養老孟司はよくケチをつけていたものだ。そんなの当たり前じゃん、同じ花なんてこの世にあるかいな、といった感じで。まあ分からなくもないんだけど、こんなふうに「大の学者」がポップカルチャーのノーテンキさを斬るような「反時代ジェスチャー」は、やっぱりなんか滑稽なんだよな。「自分だけはバカじゃないアピール」に見えてしまって。俺もバカの分際でそんなことをけっこうやってしまう。人の振り見てわが振り直せ、なんていいますけど、それが出来たら世の中のバカはもっと少ないはず。「我が振り」は自分には見えないんだよなあ。みつを。
もう飯食うか。はごろもフーズの「さんまで健康(しょうゆ味)」を温める。四時には入る。明日は休みだ。