見出し画像

「情報量の小さな一日」、白スキニー追悼、俺の刺青願望と染髪願望、マクマリー有機化学、「男のなかの男」に抱かれたい、

八月十七日

アメリカは、もしそれを原初のホモ・サピエンス集団の大規模な現代版として捉えてよいならば、かつて人類が異なる部族と部族、異なる民族と民族の間でどのような関係を営んでいたかを教えてくれるかもしれない。オープンさとレイシズムの混合、ヨーロッパ系の人びとの同化とインディアンや黒人の拒否というこの混合は、おそらくは、細かく分岐したとはいえ依然として普遍的なひとつの古い典型、すなわち同化的であると同時にレイシスト的でもあった原初のホモ・サピエンス・モデルが、現代的な様相を纏い、一つの大陸に広がるかたちで完成したものにほかならないのだろう。

エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか? 下 民主主義の野蛮な起源』第11章 民主制はつねに原始的である(堀茂樹・訳 文藝春秋)

午後十二時一〇分。紅茶、ゴマ塩ご飯。臥褥に横たわったのは四時ごろだったがそれから一時間以内には入眠できた。ただエアコンの助力はまだ欠かせない。しかしパソコンを起動するたびXboxが自動起動するのはどうしてよ。一種の宣伝なのか。ウィンドウズしっかりしろ。昨夜は少々飲み過ぎた。ビーフィーターでなければ二日酔いになっていたかも。ちょっとした身体改造(body modification)にオイラはいつも関心がある。変身願望のない人間なんていないだろう。いまの自分の姿形に満足している人間なんてほとんど死んでいるようなものだ。世界の過激な身体改造者の写真はいくら見ていても飽きない。あきらかに俺はタトゥーとか刺青を入れたい側の人間だ。浅黒くて体の引き締まったどこかの若い男が橙色の六尺褌を締めて腕組みしている(後)姿を写真で見てから余計にそう思うようになった。「男のなかの男」というイメージに俺は弱い。戯れにこれをプラトン的なイデアとして捉えてみてもいいかもしれない。俺がある男に惚れるとき、俺はそこに「男のイデア」を見ているのだ。しかしやはり俺は肌に文様を入れることはしないだろうな。あとで後悔すると分かっているから。温泉に行くといまだに「刺青のある方は入浴をお断りします」みたいな小市民的張り紙があってウンザリする。「反社会的に見えること」と「反社会的なことをすること」の区別も付かないのか。そうやって反射的に他人にレッテル貼りする「善良なる市民」のほうがずっと恐い(「善良な市民」と聞くたび私はクリストファー・R・ブラウニングの『普通の人びと』というホロコーストの研究書を思い出す)。ふりかえってみると俺は髪の脱色さえしたことがない。ただ学生のころ陰毛を脱色したことはある。脱色中と脱色直後のヒリヒリ感が半端なかったことだけはよく覚えているけどもちろんそれで得たものなんか一つもない。裸で抱き合える相手もいなかったし。「青春とはそういうものだ」。ダンディとは人から見えないところにこそお洒落リソースを投入する者のことだ。「目に見えない部分こそ手を抜かない、そういうところは必ず外観に表れる」みたいなことをどこかの宮大工が言っていたけど、いまの俺は彼の言わんとすることがよく分かる。きのう約八年前にユニクロで買った「白スキニー」にいい感じのダメージ加工を施そうとしたが、けっきょくダメにしてしまった。切るとやたらほつれやすい生地だということが分かった。パツパツというかピチピチすぎて履くたびチンコが痛くなるような代物だったのでもうそろそろ捨てるか売るかしようとは思っていたんだけどね。

お前のことは忘れない、

でも誰かが作ったものをハサミで切り刻むというのはあまりいい心持ちのすることではない。バングラデシュの縫製工場で働いていた人に申し訳ない気がする。ユニクロのボトムスはもう買わない。ちかごろクローゼットのカビ臭さを何とかしたくてしようが無い。こんど思い切って大掃除しようか。そろそろ昼食。ネギ炒めて納豆。図書館には行く。来週までにトッドの下巻を読みたい。古着屋に行くのは明日でいいいか。相対的・カツレツ問題。走れゴエモン。

いいなと思ったら応援しよう!