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愚昧なる個人主義、強者救済、ろくでなしクラブ、文学的性欲、

十一月十二日

が気弱になったときに力をつけるいい手は、おっかない相手から、ややもすればこちらが認めがちな権威を完全にはぎとってしまうことだ。その連中をありのままに、ありのまま以下に、すなわち、あらゆる角度から観察する術を身につけることだ。この方法は僕らを救い出し、解放し、意外なほど防禦してくれる。それは僕らにもう一人の僕らを与えてくれるからだ。つまりこっちは二倍になるのだ。

セリーヌ『夜の果ての旅(上)』(生田耕作・訳 中央公論社)

午後十二時五四分。布団から出たくなさ過ぎて滂沱の涙。洗濯機を回して、干し柿、ぎんなん、紅茶。ぎんなんがカリカリで風味が悪い。電子レンジで一度加熱したものはすぐに食べないといけないんだな。覚えておく。りりィ「私は泣いています」がさっきから頭を離れない。人は泣きながら生まれてくる。人の世は涙の谷。きのうは午後5時10分ごろ石引温泉に行き4時間ほど湯に浸かる。ほぼジジイ。月並みな表現だけども外の微温湯に長く浸かっていると羊水に浮かぶ胎児あるいは陸上に進出する直前の生物のごとき原始的な心持ちがする。やはり男たちのあのごちゃごちゃした「お風呂セット」を見るたび苛立ってしまうよ。だいたい大の男が体や髪を洗うのにどんなけ時間かけてんだよ。いくら洗ってもてめえらなんてもう綺麗にならねえから。俺なんかいつもタオル一枚だぞ。ワイルドだろう? 男はこうでなくちゃ。洗濯機がピーピー鳴ってうるさいから干してくる。ちょっと待ってて。おわった。靴下が溜まってたから大変だった。どうせならセナ様のパンツや靴下を洗って干したいわ。セナ様の家政夫になりたい。セナ様にならどんだけこき使われてもいい。セナ様のためなら落語「化け物使い」の奉公人みたいに働く。高貴な人の前で自我を消滅させたい。菩薩に食べられて消化吸収されたい。自我は重荷でしかない。斎藤元彦はどうなるんだろう。もう奴のことは書かないって決めたんだった。八田與一と飲める日はまだまだ来そうもない。「細かいことを気にするタチだからこそ細かいことを気にしない人間を適宜演じることが出来る」と卓上メモにある。このごろパソコンの前に長くいると苦痛を感じる。もうそろそろ嫌になるころだ。いまはっきり言えることは僕にはライター業なんて無理だということ。僕にとって文章は書くものでなくて読むものなんだ。私書く人、僕読む人。書く快楽より読む快楽のほうがずっと大きい。「読む人間より書く(書きたがる)人間の方が多い」なんて言われるこの「一億総クリエイター気取り時代」に珍しいでしょう。オイラには夢なんてありません。夢も希望もありません。世の中は中途半端な絶望者で溢れかえっている。夢も希望も捨ててようやく「理性」の居場所が出来るのです。「理性」は感傷に浸らない。夢魔に胸倉をつかまれたい。もう飯食うわ。図書館行かないと。今日から原則三時半には入る。とちゅうで腹を空かせないようたくさん食うこと。悲しみの遊覧飛行。セナ様に抱かれたい。南無阿弥陀仏南無妙法蓮華経。そどむの丘。

【備忘】7200円+1000円=8200円

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