Z世代とユトリ世代の大乱交パーティ、ウラギリだけが人生だ、
十一月五日
午後十二時四二分。デモクラシータイムスの「横田一の現場直撃」を見ながらチンした残飯を食う。国民民主党を中心とした政界茶番はまだとうぶん続きそうだ。斎藤元彦のことはもうどうでもよくなっている。あの変な政治ゴロも関わりはじめたし。SNSの上の政治言説によく見られる「マスコミに騙されていた熱狂」については近く研究しなければならない。午前五時半くらいにいっかい目を覚ましたんだけど、まだ離床するのは早すぎると思って落語を聞いてるとまた眠たくなってきたので寝たら、正午になっていた。なんか息継ぎのしにくい文だな。ちゃんと書けよ。まだ半分寝てることを言い訳にするな。紅茶おかわり。休館日なんで古書店にでも行きたいのだけど雨降りの予感しかない。せめて石引温泉には行きたい。帰り道たしょう雨が降っていてもいい。どうせシャワー浴びるから。これいじょう本を買うと早晩足の踏み場がなくなりそうなので今後はきょくりょく本は買わない方がいいだろう。本は一度増殖しだすと止められない。とくに古書店で買う均一本は増殖力がとても高い。文圃閣にはもう行かないほうがいい。そのかわり二三週間に一度は石引温泉に行く。いま服買いたい。いま服解体って誤変換されたから思い出したのだけど隣の物乞い爺さんが誰かからもらったという古着がゴミ袋一つ分あるんだった。ほとんど俺のセンスからすれば受け入れられないものばかりなんだけど。セカンドストリートに売るか精液処理用の布切れとして利用するかどっちかだな。他人からもらう服ってのは何でこうダサいものばかりなんでしょうか。親が買ってくる服が決まってダサいというのは思春期あるあるだけど、ある程度年齢が近くて趣味も似てそうな人からもらう服もだいたいダサいんだよね。かつて他人からもらったもので気に入ったのは薄紫のハーフパンツくらい。これはいまもよく履いている。たしか大学の友人からもらったもの。顔は多少マズいけど衣服のセンスはそこそこあった。顔が多少マズい方が補償機能によってセンスが磨かれるのかもしれない。他人事みたいに語るな。
熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)を読む。
2020年の本。いぜん読売新聞でこの著者のことを知った。「発達障害ブーム」や「現代人の健康志向」などの背景にある社会通念の分析はまことに鮮やか。ただ同時にこの種の時代診断の虚しさと限界も感じた。「子育てというリスクとコストのカタマリのようなことを現代日本人は好まなくなっている」といった語りは今日よく耳にする。「日本の問題」について語ろうとする言論人の誰もがいちおうは少子高齢化を憂えたがる。残念ながらこの本にもそんな通俗的な調子がある(露骨ではないけれど)。でも私の問題意識はいつも「人間がいまだに動物であり過ぎること」にある。「動物であることを自ら否定できる特殊知性が大半の人間には絶望的に不足している」ということが最大の問題なのだ。戦争も人間がいまだに「動物」的だからこそ無くならないのだ。つまり反「動物」的自意識が相当に働かない限り人間はそういうことをするものなのだ。いずれ必ずホモ・サピエンスは消滅する。その消滅の仕方はどこまでも「自覚的」なものでなければならない。自ら望んだ消滅でなければならない。でないとダサいだけ。飯食おうか。言葉が出てこなくてまじしんどい。第四次きつつき革命。お前の父ちゃんインポ。