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渡る世間はガキばかり、

八月十四日

近頃はどうだか知らないが、以前は、京都の料亭や旅館などに行って、女中に用事を頼むべく、ポンポンと手を鳴らすと、長い廊下の彼方から、ハア―ーイーと、遥かな返事が返って来たものである。ハアの伸ばし方が長ければ長いほど、丁寧で、相手に気持が行き届くというものである。学校や家庭(昔は軍隊もあった)の躾では、ハイッと短く強く返事をするのを良しとしたが、むしろ、ハア―イと、ハを長く、イを力強く締めるのが正しい作法ではなかったか。ただし、ハアとだけ言ってイを省略するのは、きわめて失礼である。

萩谷朴『語源の快楽』は行(新潮社)

十二時三分。紅茶、うずら。やはり寝付きにくかったけれども昨日よりはマシだった。睡眠負債があったからか。それとも紅茶のティーバッグ制限が効いたからか。森の里イオンの百均でネックレスチェーンを買ったのだけど懸念した通りアルファベットビーズの穴に通らなかった。チェーンを分解して通す、という方法もあるのだろうけど壊れると嫌だからしなかった。仕方ないからすでにある錆びかけたチェーンを使ってSENAネックレスを作った。

セナグッズ第一号、

ATMで二千円を引き出したら一枚が新顔のお札だった。北里柴三郎。どう考えてもこの人は五千円札向きの顔だ。僕が子供のころは千円札の顔といえば夏目漱石だった。そういえばさいきん漱石の長女である松岡筆子の「お札と縁遠かった漱石」というエッセイを読んだ(文藝春秋・編『巻頭随筆Ⅳ』)。1981年9月の「文藝春秋」に発表されたものでこういう書き出し。

父の顔が千円札に登場するといいます。なんだかピンときません。というのも生前の父の暮らしぶりがお札と縁の深いものだったとは思えないからです。

凡庸といえば凡庸。でも文豪の妻や娘や息子はその文豪の私生活を身近で見ているから編集者なんかが放って置かないんだよね。「文豪の家族本」だけを集めてもきっと汗牛充棟だろう。開高健の娘もよく物を書いてたね。『父開高健から学んだこと』という本があるがこの種の本はたぶん死ぬまで読まないだろうな。文豪の娘といえば森茉莉と幸田文が代表格だ。全体的に息子よりも娘の方が伸び伸びと自由に筆を執っているように見えるのはどうしてだろうか。ジェンダー上、息子よりも娘のほうが「父の壁」を意識しないで済んでいるから、とつい言いたくなるけど、そんな単純なことではない気もする。午後六時半ごろ、約一年ぶりに石引温泉へ行って二時間ほど湯に浸かった。相変わらず骨と皮の年寄かヒキガエルみたいな中年ばかり。美しい裸体は皆無。まだシックスパックじゃないから他人の体形についてとやかく言うのは止そう。あんのじょう誰もが外の微温湯に浸かりたがっていた。しかし洗い場に入浴セットを置いたままにしている連中にはいつも腹が立つ。置き場所がないなら使うまでロッカーに入れとけ。図書館にも荷物を置いたまま長時間席を外しているやつが多い。てめえら「公共」という概念を知らないのか。そんなのは大人ではない。いますぐチン毛を剃ってくれ。チン毛もチン毛でそんなガキみたいな男のチンコに生えるんじゃないよ。

澁澤龍彦『サド侯爵の生涯』(中央公論社)を読む。
はじめて読んだのは澁澤訳の『ソドム百二十日』だったか。「背徳の快楽」を悉く書いてやろうという意欲に満ち満ちた小説だったけど途中で飽きしてしまった。未完で良かったと思う。サドはそこまで好きではない。リベルタンとかいうわりには哲学的感性が鈍そうだから。既成の道徳やカビ臭い宗教を踏みにじるのは勝手なんだけど、踏みにじりながらも徹底的に考えてほしいのだ。「私」というこの端的な「ある」の超越論的孤絶性について。この「ある」の度外れた認識に立脚しないで生きている者はみな愚鈍である。犯罪的に愚鈍である。そんな愚鈍さを引きずりながら「自由」や「平等」や「正義」を論じるなんてちゃんちゃらおかしいや。昼飯食うわ。ご飯チンして味噌スープ。このあとライブラリー行こうかな。それとも駅に行くか。カッサンドラの復讐。マヨネーズを塗りたくった君の体にキスしたい。

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