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「生の意味」など問う暇あれば、アザミ嬢のララバイ、善男善女の蒼き血潮、フルチ二ズム宣言、お前はサボテンなんだ、だから誰もお前には抱かれたくない、

七月十九日

子どもを生むことは人間の最大の罪悪だ――しかし、子供のためにこそ鬼子母神も遂に神になり得たのだ。

辻潤『癡人の独語』(オリオン出版社)

午前十一時五八分。クジラとゴジラと格闘する夢を見る。紅茶、バータイプの森永ムーンライト。いまサザンの曲が流れた。夏のルージュで描いたサイン。ある言葉を聞くとその言葉を含んだ音楽がすぐ脳内再生される。だから白樺という言葉に触れるとすぐに千昌夫の声が聞こえる。起きてから五分以内の「朝食」はいつもごく簡素。だいたいこの「読書日記」を書きながら食う。もうこれを書き始めてからやがて六〇〇日が経過する。何の事件も起こらない日常のなかでよくこれだけ続けられたと思うよマジで。国内に五人くらいしか患者のいない難病を抱えながら必死に生きているわけでもなければ、小汚い格好でアジア各地を放浪しているわけでもない俺が。震災で家をぜんぶ失ったとか父親がアル中のDV野郎だったとか極貧の母子家庭育ちで中学生のころから新聞配達をしていたとかいう苦労ネタとも無縁のこの俺が。これもひとえに俺の中途半端な露出癖と満たされざる承認欲求といちおう読んだフリだけでもしてくれる微少の読者のおかげでしょう。

三六歳男の「朝食」、

そういえば三か月ほど前にユーチューブで九〇歳の田原総一郎の朝食風景をたまたま見たが、最後まで何もせずにただ黙って食っているだけで、「オイラには真似出来ない」と思った。タレントジャーナリストだけに撮影されていることを意識して敢えてそうしていたのかもしれない。あれだけの本に囲まれているんだからせめてなんか読みながら食えばいいのに。本を読む時間を惜しまない人間を俺は信用しない。彼の「老害」についてはもう語られ過ぎている。でも私は彼のことはそこまで嫌いではない。「(ときには)これくらい図々しくならないと長生きなんか出来なんだよ」と若者たちに伝えたいがために敢えて厚顔無恥を演じているように見えるからかも。暑いからもうパンツ以外はぜんぶ脱ぐ。きのう洗濯するのを忘れていた。せっかく晴れていたのに。こういう蒸しまくる時期はきょくりょく部屋干しはしたくないんだよ。きのうけっきょく古書店に行けなかった。今日も行けないかも。あとで「降水確率」を見る。あんな数字を見てもじっさい腹が立つだけなんだけど。40%とかいうのが一番腹が立つ。だいたいなんで上から落ちてくる液体ごときに行動を制限されているんだよ俺は。雨ニモマケズって、最初から戦ってねえじゃねえか。男なら戦え。生きるとは戦うことだ。セナ様を見ろ。戦う顏をしている。京田よりも立浪よりも戦う顏をしている。

三部倫子『カムアウトする親子(同性愛と家族の社会学)』(御茶の水書房)を読む。
博士論文を大幅に加筆修正したもの。子供に「セクシュアルマイノリティ」であることをカムアウトされた親へのインタビューがもとになっている。私はおそらく「当事者」なんだろうけど、なぜか最後までひじょうなイラつきを覚えながら読んだ。なんでだろう。子供が子供を作って「家」が続いていくことを当たり前のように捉えるボンクラども語りにウンザリしたというのはもちろんある。「孫の顔が見たい」なんて定型句を言い放つ親など今はもちろん昔もいなかったと俺は思うが、やはり内心ではそう望んでいるのだとは思う。その望みは倫理的だろうか? 本書を読みながらイラつきを覚えたのは、登場するセクマイ当事者の言葉があまりにも紋切り型だらけで、芝居がかっていて、「終わりなき思春期」を甘ったれて生きているようにしか見えなかったからだ。だいたい私は「ありのままの自分を承認してほしい」というふうな欲求表明が死ぬほど嫌いだ(だいたいそんなものは存在しない)。だいたいね、「差別問題」なんてのはつねに「差別する側の問題」なんだよ。「自分らは多数派である」という自覚されざる自覚のなかで、ある「少数他者」を見つけ、「あいつらのことならいくらでも悪く言っても構わない」と「迫害」しないではいられない、その凡庸な邪悪性こそが問題なのだ。そこに欠如しているのは「思いやり」なんてチンケなものではなく「認識」だ。たとえば「多数派など多かれ少なかれ幻想である」ということへの。これはいくら強調してもし足りない。ああ、たくましくなったセナ様に御姫様抱っこされたいわ。ちょっとでも体重落とさないと。もう昼食。ネギと牡蠣を炒める。今日のラッキーアイテムは天皇のサンダルです。

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