四月七日
午後十二時三八分。こーひい、せんべい。いつもより余計にねむい。午前十一時五十分くらいにはパソコンを開かないと。きょうは図書館に行くつもりはなかったのだけど行ったほうがいいかもしれない。病み上がりはどうしても自分に甘くなる。もっとも病み上がりでなくても自分に甘いのだけど。俺の知る限りでは自分に甘くない人間はぜんいんクズだから。天気が良いから二三時間は歩かないといけないような日だ。被曝の危険がなければな。あまりにねむいので濃い目の緑茶飲むわ。文章を書くコンディションじゃない。ただいま訪問者あり。十分ほど雑談。きのうはシオランの日だった。一か月に一度くらいはシオラン以外読めなくなる日がある。『カイエ』(金井裕・訳 法政大学出版局)からノートに書き抜いたものを並べる。
シオランを読むたび、そのこれ見よがしの絶望のなかに役者を見てしまう。饒舌な人間の絶望などたかが知れているからだ。にもかかわらず俺は彼に親愛の情を抱かざるを得ない。とくに彼の滑稽さに対して。「ただこの世で苦しむためだけの人間」という自覚はねんねん強くなっている。「生きる意味」なんてのは頭の弱い酔っ払いにしかふさわしくない言葉だ。
そういえばきのうの読売新聞に喜劇的な記事があったよ。一部をそのまま引く。
「常識的」に考えたら、「そんなものをいきなり市役所なんかに持ち込むのはおかしい」と言える。「まずは警察かどこかに電話しろよ」と言える。でも当人は「ただの鉄の塊」だと思っていたわけだからな。下手したら罪に問われかねなかったんじゃないの。なんか知らんけどヘンリー・ローソンの「爆弾犬」を読みたくなってきた。もうそろそろ卵かけ御飯くうか。むかしむかしあるところでおじいさんとおばあさんがせっくすをしていました。おじいさんはごむをつけていたのでももたろうはうまれませんでした。もっともごむをつけていなくてもももたろうはうまれなかったでしょう。めめんともり。なむあみダブツ。