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『ペルシアン・ブルー23』
29 パリュサティスの章
油の壺を抱えて、地下の広間から、更に深い氷の池まで降りた。氷の中に封じられた女性は、以前と変わらず、目を閉じたままだ。
恐ろしい魔女なのか、それとも救いの女神なのかはわからないが、賭けてみようとパリュサティスは決めていた。それしか、今の自分に出来ることはない。
パリュサティスは氷の上に油を流し、松明で火をつけた。青黒い氷の池が熱い炎に照らされ、赤く輝く。
煙が上がるので、いったん大広間に退避して、岩の柱の根元に座り、しばらく待った。炎の熱で、どれだけ氷がゆるむだろうか。油の量は、池全体からすれば、たいした量ではない。もっと追加の油を注げばいいのだろうが、ここまでの長い階段を、また昇って油を取りに戻るには決心が要る。
煙が薄れてきたので、氷はどうなったか確かめに行こうと、腰を上げた時である。薄く漂う煙の中から、白い衣装の女性が現れた。長い茶色の髪も、裾の長い衣装も、まだ氷のかけらをきらめかせ、濡れそぼっている。岩壁にすがって、ようやく躰を支えているようだ。素足でそろそろと足元を確かめ、表情はまだ、夢から醒めきっていないように思える。しかし、とにかく、自力で動けるようになったのだ。大成功ではないか。
「よかった、自由になったのね!!」
パリュサティスが喜んで出迎えると、謎の女性は疲れたように顔を上げ、しかし優しく微笑んだ。パリュサティスよりもやや小柄だし、顔は若く見えるが、落ち着いた物腰から、ずっと年上らしいと見当がつく。
「油を流してくれたのね。あなたのおかげで、氷を割れたわ。ありがとう」
声がかすれているのは、長く眠っていたせいだろう。
「顔に熱と光が感じられて……目が覚めたの。ずいぶん長く、閉じ込められていたみたい」
このほっそりした女性が、いくら熱でゆるんだとはいえ、自力であの厚い氷を割ったのなら、それはたいした力業だ。やはり、普通の人間ではないのだろう。
白い衣装の女性は広間を見渡し、パリュサティスに向かって問う。
「ここは、どこなのかしら……」
「ナイルの西の大砂漠の中よ。魔王の根城の地下。あなたは、魔王に捕まっていたんでしょう?」
彼女は手で頭を押さえ、目を閉じて、記憶を探るようだった。
「そう、そうだったわ。逃げられなかったの。あの男……わたしよりずっと、魔力が強くて……」
彼女は顔を上げ、岩の天井を通して、はるか地上を眺めるような動作をする。
「魔王の気配が、ない……」
パリュサティスは驚いた。
「あなたには、それがわかるのね。あなたも魔物の仲間……魔女なの?」
「人間ではないという意味では、そうね。でも、精霊の一族と言ってくれる方がいいわ」
とりあえず、邪悪な存在ではないようだと、パリュサティスは安堵した。
「魔王は、どこか遠くに行っているのかもしれない。あいつ、よく、世界の果てまで飛んでいるらしいから」
「それなら、今のうち、逃げられるかもしれないわ」
ヤスミンと名乗った不思議な女性について、パリュサティスは地上への階段を登り始めた。内心では、いつ魔王が怒って飛んでくるかと警戒していたが、うんざりするほど長い階段を登りきるまで、とうとう姿を現さなかった。
「ああ、空だわ!!」
地上に出て、涼しい夜風が吹く庭園に立つと、ヤスミンは気持ちよさそうに深呼吸した。パリュサティスにも、彼女がぐんぐんと、力を増していくのが感じられる。
それから、ヤスミンがぱっと顔を輝かせた。
「スメニアがいる!! すぐそこよ!! 来てくれたんだわ!!」
誰のことかとパリュサティスが尋ねたら、ヤスミンの恋人だそうだ。その気配が、岩山の上の方にあるのだという。
「いらっしゃい!!」
ヤスミンに手を取られた途端、パリュサティスはふわりと宙に浮き上がっていた。そのまま、岩山の外壁に沿ってぐんぐん昇る。ヤスミンも空を飛べるのだ。魔王のように。
(精霊の一族。本当にいるんだわ。それでは、アナーヒター女神もおわすのかもしれない。遠い昔に誰かが神々に出会って、それを語り伝えてくれたのかもしれない……長い年月のうちに、話が変容してきたのだとしても)
そうして、パリュサティスたちは岩の部屋にたどり着いた。厚い岩盤にうがたれた窓から入ると、何かがたくさん飛び散った床に、大柄な女性が座りこんでいる。
そして、それを支えているのは、長い黒髪の男性。
パリュサティスは目を見開いた。兄さまだ。アルタクシャスラ兄さまがいる。その前で、毛皮の敷物の上に、ぐったりと横たわっているのはミラナ。
何も言えないでいるうちに、アルタクシャスラ王子が立ち上がり、こちらに歩み寄ってきた。そして、腕を伸ばしてパリュサティスを抱きしめてきた。
懐かしい香り。力強い腕。夢じゃない。自分の上に頭を傾け、黒髪の王子はかすれた声でつぶやいている。
「パル……パリュサティス……」
そうだ、小さい頃はパルと呼ばれていた。懐かしい愛称。可愛がられていた日々が蘇り、パリュサティスはしばらく、口がきけない。ただ、熱い涙が湧いて、止まらなくなった。
――兄さまは、あたしを見捨てたのではなかったのね。はるばる砂漠を渡って、探しに来てくれたのね。
怒りも恨みも溶けて、流れた。もう、このまま死んでもいいと思うくらい、幸せだった。
気がつくと、二人の横では、ヤスミンが大柄な女性と抱き合っていた。おまけに、熱烈な口づけを交わしている。パリュサティスは唖然として、まじまじ眺めてしまった。明らかに、長く引き離されていた恋人同士の抱擁だ。
(初めて見たわ。女の人同士が、こういう恋人同士の口づけをするの。サッフォーの詩は読んでいたけれど……)
パリュサティスを抱く兄王子も、やや驚いたようである。
「スメニア、もしかして、きみの目的は……」
「そういうこと。魔王が、あたしのヤスミンをさらってくれたのでね。やっと取り戻せたわ。ご協力、感謝するわね」
そして大柄な女性は、パリュサティスに向かって、碧玉のような片目をつぶってみせる。金褐色の髪をした、背の高い、豪華絢爛な美女だった。これがヤスミンの恋人。世の中、こういうこともあるのね。
パリュサティスはつくづく感心してから、はっとして兄から飛び離れ、ミラナの横に膝をつく。
「ミラナ、ミラナは怪我をしたの!?」
「大丈夫、手当てしたから。何日か休めば、回復するわ」
スメニアという美女にざっと経緯を説明され、パリュサティスはほっとする。
「それじゃ、もう魔王は心配いらないのね」
よかった。それならもう、アルタクシャスラ兄さまが危険な目に遭うこともない。少なくとも、当面は。
ヤスミンも感動したようで、長身のスメニアにすがりついている。
「それで、あなたが新しい依代になったのね。そんな方法があるとは思わなかったわ。あなたって、本当にあきらめない人ね」
「いやあ、出たとこ勝負で、破れかぶれだっただけなんだけど……王子とミラナのおかげで、うまく収まりがついたわ」
その様子を見るパリュサティスも、心が慰められた。三百年も再会を待ち続けていたなんて、この二人は、本当に魂が通じているのね。
「それより、どうしようか、こいつ。助けてやる?」
スメニアの言葉に、パリュサティスは仰天した。
「助けられるの!? こんな、ばらばらなのに!?」
スメニアは肩をすくめた。
「放っておけば、夜明けには細胞が死滅するわ。でも、簡単に死なせたらつまらないでしょ。何しろ、三百年の恨みがあるんでね。あたしがそうされたように、瓶ごと砂漠に捨ててやるとか。でなければ、極地の氷山に埋めてやるとか。鉄の箱に詰めて、深海に沈めてやるとか」
しかし、パリュサティスの見る限り、スメニアにはもう、怒りも恨みもないようだ。ただ、哀れな敗残者を救ってやりたいだけに思える。
「お願い、できるなら、助けてやって」
パリュサティスは頼んだ。
「何を言う。あんな奴を復活させたら、また何をしでかすか……」
と言う兄を遮り、スメニアの前に出て訴える。
「この男は、ミラナを助けようとしたんでしょ? あたし、ミラナも、こいつが嫌いじゃない気がするの。本当に邪悪だったのではなくて、ただ、どうしようもなく、ひねくれていただけなら……」
「それを、悪党と言うのだろう」
部下を殺されたアルタクシャスラ王子は渋い顔だったが、パリュサティスは自分の感覚を信じていた。
「きっと、心が弱かったから、悪霊に入り込まれたのよ。本当に強かったら、このスメニアのように、霊たちを慰撫してやれるんだわ」
するとヤスミンも、横から言う。
「わたしもそう思うわ。この人、寂しくて、自分でもどうしていいか、わからなかったみたい。わたしが優しくしてあげれば、よかったのかもしれないけれど。わたしも、急にスメニアから引き離されて、怖かったから」
スメニアが、にやりとして言った。
「それじゃあ、手術をしてみるか。ここまで吹き飛ばしてしまったものを再生するとなったら、大変な手間だけど。ヤスミン、手伝ってくれるよね」
***
ミラナを魔王の寝室に寝かせておき、パリュサティスはランプを持って、兄王子と共に自分の部屋に戻っていた。
「兄さま、お疲れでしょう。少し眠るといいわ。明るくなったら、狼煙でも上げて、兄さまの部隊に連絡をつけましょう。ああ、お腹が空いていたら、食べ物はここに……」
ところが、そのパリュサティスを、アルタクシャスラはぐいと抱きしめた。乱れたままの赤毛の髪に幾度も口づけをして、
「無事でよかった」
と涙声で言う。嬉しくて顔中涙になりそうなのは、パリュサティスの方である。
――兄さまの腕の中。夢にまで見た場所。あたしのいたかった場所。
やっと安心したので、涙をこすって、恨み事を言う元気が出てきた。
「兄さまのばか。よくもあたしを、あんな男と結婚させようとしたわね。国に戻っても、あたしは絶対、絶対、誰とも結婚なんかしませんからね。そんなことさせようとしたら、家出するから」
「わかった、わたしが悪かった。どこへも行かないでおくれ。昔のように、わたしの側にいてくれないか」
パリュサティスははじっと、兄の顔を見る。潤んだ黒い瞳がこちらをみつめていて、目をそらさない。
「ほんとう? じゃあ、誰とも結婚しなくていいの?」
「そうだな……おまえが嫌なら、しなくていい。ただ、わたしと結婚するのは、それも嫌か?」
パリュサティスはしばらく、自分の聞いたことが信用できない。
「もう一回、言って」
と用心深く頼む。
「わたしと結婚して、一生側にいてほしい」
パリュサティスは兄の胸に顔を埋め、強く抱きついたまま、また涙に濡れてしまう。夢ではない。本当だ。何度もこういう夢を見て、その都度、泣きながら目を覚ました。ミラナの前では泣かないようにと、どれほど努力したことか。
「来てくれるなんて、思わなかったの。来てほしかったけど、捨てられたんだと思ってた……」
「すまない、悪かった。もう二度と、離さない。婚約の印に、これを受けてくれるか」
アルタクシャスラは襟元から美しい緑の石の首飾りを引き出し、自分の首からはずして、パリュサティスの首にかけた。
「綺麗ね」
とパリュサティスはため息をついた。濡れたような光を放つ、深い緑の宝石たち。これだけの石は、帝国中探しても、そう滅多には見つからないはずだ。兄さまは以前から、広く命じて集めさせていたに違いない。きっと今日という日が、あたしの人生で一番の日だわ。
「おまえの瞳に比べれば、ただの石ころだが」
「まあ、兄さまったら」
パリュサティスはつい、笑ってしまう。兄さまのお世辞なんて、初めて聞いた。
「ひょっとして、あっちでもこっちでも、そんなこと言ってきたんじゃないの?」
「言うものか。何年もずっと、おまえのことしか考えていなかったのに」
「それにしては、冷たかったわ」
「兄上と戦う決心が、つけられなかった……だが、もう大丈夫だ。おまえがいてくれれば、わたしに怖いものはない」
夜明けの光が空を金色と薔薇色に染める中、パリュサティスは愛する男性と結ばれた。肉体的には痛みを伴ったが、心の底から幸せだった。
――世の中の男すべてを呪う魔女にならなくて、よかったわ。
二人で岩のテラスに出て、青く晴れ渡る空を見上げた。何もかもがまぶしく、美しい。正式な婚儀はまだ先だが、自分はもうアルタクシャスラの妻なのだ。
「いいか、パリュサティス。わたしが兄上を倒して王位を狙うと決めたのは、自分が王になるためではない。王にはなるが、それは手段だ」
兄が急におかしなことを言い出したので、パリュサティスはきょとんとする。この砂漠の中では、故国の政治は、まだ遠くかすんでいたのだ。しかし、兄はずっと考えていたらしい。二人揃っての未来を。
「わたしはおまえを王妃ではなく、女王にするつもりだ。その違いがわかるか」
パリュサティスは、緑の目を見開いた。
よくわかる。
とてもよくわかる。
王の付属物でしかない王妃と、独立した権威を持つ女王の違い。
だが、この兄が、そんなことを考えていたとは。
「兄さまに、その違いがわかるという方が、驚きよ。あたしも、それを考えていたんだもの。もし、生きて帰れたら、お父さまを脅してでも、女王の座を狙おうと思っていたの」
すると、アルタクシャスラは苦笑した。
「我々はやはり、魂がつながっているらしいな。わたしが王位についたら、おまえを共同統治者と宣言する。そして、おまえを全面的に補佐する。おまえが女王なら、民も兵士もみな納得して従うはずだ。おまえの思う通りに、改革を進めるといい」
――そうなの。そういう風に思ってくれるの。嬉しい。さすがは兄さまだわ。
「ありがとう。やってみるわ。支えて下さいね」
国へ帰れば、まず、ダラヤワウシュ王子の一派と戦うことになる。しかし、自分たちの気持ちが一つになっていれば、勝てるだろう。そして、二人で理想の国を作るために働く。全ての人が幸せに暮らせる国を、この地上にもたらすのだ。
『ペルシアン・ブルー24』に続く