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『ペルシアン・ブルー13』
16 魔王の章
どのくらい前のことだったか、よく覚えていない。
魔王の生活には、記憶の手掛かりとなる出来事が少ないからだ。だが、地中海の岸辺で精霊の女に出会ったことは、忘れていない。
最初は、自分の同類かと思ったのだ。ついに、魔物の仲間に出会えたのかと。
だが、そうではなかった。小柄でほっそりとし、美しく優雅な女だったが、高慢で冷淡だった。
あの女は、こちらをおぞましいものだと決めつけ、見下す態度で言ったのだ。あなたのような悪霊は、この世に存在してはならない。間違って誕生したのだから、滅びるべきだと。
こちらはただ、救われる方法を求めて、手を伸ばしただけだったのに。返ってきたのは嫌悪と軽蔑、鋭い敵意。
彼女の魔力に切り裂かれないためには、力ずくで押さえつけ、凍らせるしかなかった。無我夢中だったので、どうやったのか、よく覚えていないのだが。
(ざまを見ろ。この世の終わりまで、氷漬けでいるがいい)
その時に、知った。どうやらこの世には、精霊の一族というものがいるらしいと。
その精霊の仲間が、怒ってこちらを追いかけてきた。たいした力もないくせに、戦いを挑んできたのだ。猛り狂った雌虎のように。
だが、じきに勝てないと察したらしく、身を翻して逃げようとした。それを砂漠まで追いかけ、瓶に隠れていたのを幸い、そのまま封印してやったのだ。
(あいつも永遠に、瓶の中にいるがいい)
といっても、封印がいつまで保つものか、自分でも不明なのだが。
それが自分の弱点だと、魔王は知っていた。魔物の仲間がいないため、力の使い方を教わることができないのだ。いちいち、自分で試行錯誤しなければならない。飛ぶことも、ものを凍らせることも、砂嵐を起こすことも。
しかし、もうずっと忘れていた出来事だ。よもやパリュサティスたちが、わざわざ氷室まで下りるとは思っていなかった。
(小娘のくせに、地底の闇が怖くないのか……それとも、女神の加護があると、本気で思っているのか)
赤毛の子猿め。まあいいだろう。地下への階段は、大岩で塞いだ。もう二度と、氷室に侵入されることはない。
(さて、世界の見回りだ)
魔王はほとんど毎日、日課のようにして空を飛ぶ。今日もまた、ナイル方面を偵察に出た。最近、砂漠をうろうろする男たちが増えてきているからだ。
ペルシア王が、王女の身柄に、大層な賞金をかけたことは知っていた。出世や財宝に釣られて、大砂漠に踏み込む阿呆がずいぶんいるものだと、皮肉に思う。
大抵は、途中であきらめて引き返すが、中には、倒れてミイラになる者もいる。盗賊に身ぐるみはがされて、乾き死にする者もいる。砂嵐に巻かれて、それきりの者もいる。
気になるのは、二千人近くの軍勢を率いてきた、アルタクシャスラ王子のことだ。駱駝の隊列は長く続き、水も食料もたっぷり運んでいるらしい。部隊は訓練が行き届き、整然として、脱走者も見当たらない。
(知恵者として名高いらしいが、本当に、俺の根城まで進軍しかねない勢いだな)
偶然なのかもしれないが、やけに正確に、彼の根城である山地を目指しているように見える。皇太子には、漠然とした手掛かりしか、与えなかったはずなのだが。
(ふん。まあ、いいだろう)
皇太子はこちらを恐れ、代理に弟王子を寄越したのだ。誰でもいい。自分に挑戦してくれるのなら。
(俺の庭先までやって来られたら、精々、歓迎してやろうではないか)
兄王子が目の前で殺されるさまを見たら、さすがのパリュサティスも落胆して、大人しくなるに違いない。そして、女神の加護などないのだとわきまえ、身の程を知るだろう。
ちくりと刺のような痛みをどこかに感じたが、それは、ミラナがどんな顔をするか、心の隅で思い描いたせいらしかった。その時こそ、あの侍女も、俺を憎しみの顔で見るだろう……
それで当然だ。そうならなければ……
一通りの偵察が済むと、魔王は地中海の上へ出る。気に入っている小さな島の一つに舞い降り、山の頂に座って、視界全てに広がる青い世界に眺め入る。
前に、この島に上陸しようとした人間たちは、船ごと海の底へ沈めてやった。少し油断をすると、人間どもはたちまち押し寄せてきて、町や村を作ってしまう。蟻のようにわらわらと群れて、家を建て、城を築き、この世界を自分たちのものにしようとする。
何と目障りな、うるさい種族だ。
自分もかつては、そういう蟻の一匹だったのかもしれないが。五百年も経ってしまえば、別の世界の出来事のようなものだ。
(痛い、苦しい、やめて)
(どうして俺だけ、こんな目に)
(誰か助けてくれ。楽にしてくれ。一思いに殺してくれ)
頭の中の声だけは、止むことがない。かろうじて、海賊を退治したり、人間たちの戦争をかき回したりする時だけ、気がそらせる。
それにまた、何をやらかすかわからない王女も、気晴らしとしては上出来の部類か。
島からの帰り道、海辺の村から食料や雑貨を失敬してきた。何しろ、あの女たちは軍勢をおびき寄せる餌なのだから、飢え死にさせたり、病気にさせたりしてはまずい。
(対価を払えと、しつこいが……)
人間たちは動物を好き勝手に殺し、山から大量に木を伐り出して、何の対価を払っているというのだ。宝石や黄金も、元は自然界のものだ。それを人間が勝手に、自分のものだと言い張っているにすぎない。
それから灼熱の砂漠を飛んで、自分の岩山に戻った。女たちが無事でいることを確かめてから、いつものように、涼しい場所に食料を……
そう思ってあたりを見回した途端、魔王はぎょっとして、抱えてきた食料を落としそうになった。
赤毛の子猿姫が、鉄鉤と綱を使って、岩壁をよじ登っているではないか。古い剣を鍛え直して、登山用の鉤に仕立てていたのだ。おまけに、草や木の繊維で編んだ長い綱までできている。
(いつの間に……)
しかし、そんなもので越えられる絶壁ではなかった。案の定、途中で鉄の鉤爪が折れて岩から外れ、落下してしまう。
姫は綱を引き、折れた鉤爪を手元へ引き戻したが、自分は崖の途中のくぼみにへばりついたまま、身動きできない状態に陥った。予備の道具を肩にかけてはいるが、足場が悪くて、そこからは鉤をうまく投げられないのだ。
それでも幾度か、角度を変えて崖上へ鉄鉤を投げたが、鉤はかすりもせずに落ちてくる。そうそう都合よく、岩にひっかかるものではないのだ。しかし、既にかなりの高さに登っているので、降りようにも、迂闊には動けない。
「姫さま!!」
崖下でミラナが身をよじっていたが、どうなるものでもなかった。午後の陽光がじりじりと崖を焼き、まともに照りつけられる姫は、みるまに暑さで消耗していく。
とうとう、綱なしで降りる試みを始めたが、降りるための手掛かり、足掛かりはなかなか見つからない……
「あっ!!」
ついに足が滑って、パリュサティスの躰は急斜面を滑り落ちていく。ミラナは恐怖に息をのんだが、まともな転落にはならなかった。姫はすぐ下の岩棚にぶつかり、そこでうまく止まったからである。
女たちは冷や汗をかいただろうが、俺が支えてやったとはわかるまい、と魔王は思う。
(怪我をされるのは厄介だが、甘く見られるのは、もっと厄介だからな)
あの子猿姫は、どうも苦手だった。脅そうとしても、ことごとく見当が外れる。逆に喜ばれて、閉口する。あるいは、怒って食ってかかってくる。ずけずけと遠慮のない口をきく。やりにくくて仕方ない。
しとやかな侍女の方ならば、まだ脅す甲斐があるのだが。からかってやろうと思っても、何しろ、朝から晩まで姫にべったりだから、なかなかミラナ一人になる隙がない。
おそらく、二人まとめてさらってきたのが間違いなのだ。二人だと寂しさもないようで、まるで別荘に遊びに来たような呑気さなのだから。
(まあ、王子を片付けるまでのことだ……)
子猿姫は岩棚の上で呼吸を整えると、あとはゆっくり、少しずつ緩斜面まで降りていった。待っていた侍女が駆け寄って、抱え込むようにする。
「姫さま、お怪我は!!」
「ああ、平気……ごめんね、心配させて」
(馬鹿め、俺がいたから無事で済んだだけだ)
「今度はもう少し、丈夫な鉤になるよう打ち直してみる。こんなことなら、もっとちゃんと鍛治場を見学しておくんだったなあ……でも、女はなかなか入れてくれないのよね」
全く懲りていないというのは、本当に馬鹿なのか、それとも豪傑なのか、魔王としては判断に困る。
「もう、おやめになってください、こんなにすりむけて。手当てをしますから、どうぞこちらへ」
忠義面のこの侍女も、癇にさわると魔王は思っていた。毎日、いそいそと料理をしたり、水を汲んだりしているが、いずれ助けが来れば、自分の忠節は十分報われると思っているのだろう。
しかし、それは甘い期待というものだ。姫を探すペルシアの軍勢は、一人残らず砂漠で倒れ、あるいは逃げ散っていくはずなのだから。
ペルシアン・ブルー14に続く