「ジャンヌ・ディエルマン」映画レビューというかもはや体験記
こんにちは。ついに見ました。シャンタル・アケルマン「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コルメス河畔通り23番地」。 220分、さあどんなもんかと意気込んでみましたが、ほんとに、見終わった後、こここれが世界で評価されるということかあああ!と衝撃で放心状態になりました。
英国映画協会の史上最高の映画100の一位に選ばれたとの事で気にはなっていましたが、長さで尻込みしてしまい、今になってやっと。東京日仏学院での上映会に行って参りました。今回も引き続き超超個人的レビューをしたいと思います。
あらすじ、、むずかしいですね。
多分他の方のレビュー等でも書かれていると思いますが、ほんとに主婦がキッチンや部屋で家事をしている映像が大半なんです。しかも定点で。16.7歳の息子と母親の2人暮らし。父親は戦死。母親は息子が学校に行っている間売春をしてお金を稼いで生活しています。その母親の三日間をでただ追っているような感じです。
私は前情報を全く入れずに見たので、二日目の朝が始まったあたりから「これはいつまで続くんだ、、、」と正直不安になりました。笑
フェミニズム映画として
この映画は「フェミニスト映画評論に大きなインスピレーションを与えた」と語られることが多く、その面でも注目して観ていたのですが、このような形で女性の在り方を問うことができるのかと無知ながらに感心しまくりました。本当に1976年の作られた映画なの!?と疑うほど。そう感じるのは日本が凄く遅れているだけ、もしくは私が遅れているだかもしれませんが、、、
ただこの手の話題は、より正確に情報を書きたいですしこの文章を読んでくださっている方にもよく正しく知ってもらいたいので私の個人的な感想だけじゃなく、とてもわかりやすいなと思ったパンフレットの一節あったので紹介します。
映画という表現方法の奥深さに気付かされる文章ですね。。
少し見当違いかもしれませんが、よりリアルに、そしてリアルタイムに家庭生活を描いていることだけに関して言えば、家事をこの映画においてのヒエラルキーを上位に置くことによって、その行為を見て、抑圧された狭い世界で生きる可哀想な女性だとネガティブに感じる人もいれば、アケルマンの言うように母の姿や愛をその中に見出し美しいと感じる人もいるだろうと思います。私は後者でした。その慣れた手つきに懐かしさを感じました。ですがどちらの感覚を強く持とうとも主人公が辿る結末は耐えがたいものであり、前者を感じていた人はやるせなさを強く感じるだろうし、後者であれば強い憤りと問題意識、絶望を感じるのではないでしょうか。
感想(ネタバレあり)
この220分を劇場で過ごした後、最初に思ったことは、これほどに220分全てに意味を持たせることができる映画が他にあるだろうかと思いました。ただ家庭生活を見るだけの膨大な時間はいわば追体験であり、保たれていたルーティーンや秩序が壊れていくその恐怖をより自分ごととして体験するための必ず必要な時間だったと強く思います。生活が壊れる瞬間というのは映画やドラマのように劇的なものではなく、呆気なく誰も気付かぬうちに引き返せなくなるほど徐々に蓄積され突然訪れるものであると気付かされます。
最後の彼女の表情を長回しで見せるシーンは本当にいろんな感情がとめどなく出て来ますよね。どこで何を変えていればこの結末にならずに済んだのか、売春さえしなければ全てが起こらなかったのか、それで全てが解決?そうも思えない。突然人を殺すなんてことは当たり前に正気の沙汰ではありませんが、果たして彼女はいつから正気ではなかったのか。そこにあった衝動は、母親としてではなく、女性として自分自身の性に向き合ったその瞬間の、どうしようもない怒りが込み上げてきた先での衝動だと私は感じましたが、怒り、悲しみ、憎しみ、全てがグラデーションで存在していると思われます。演技や映像表現に多くの余白があるからこそ考えざるをえない時間でした。
この三日間はいわば彼女の「最後の三日間」であり、極限状態であくまで日常を守ろうとした彼女の様子が見てとれますが、このほぼ機械的な動作や生活にこの三日間を辿るまでの日常が透けて見えます。それは観客に対して各々の日常や、主人公を追い詰めた社会や夫を奪った戦争に対しても疑問を抱かせ、気づくことの出来ない変化やほぼ無意識におこなっている生活の一つ一つ、恐怖すら感じさせるでしょう。
いやあ、それってどんなホラー映画よりも怖いこと気づかせて来てるじゃん。
コロナも相まってより個人で生活ができるようになった現代だからこそ、よりたくさんの人に見てほしい映画ですな。
ご拝読、ありがとうございました。
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