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週刊法話ステーション「感情」中谷潤心

 
週刊法話ステーション「感情」
 
今回、仏教伝道協会のオンライン法話会「週刊法話ステーション」にてお話しさせていただく機会を賜りました。真宗大谷派九州教区鹿児島組大隅ブロック、眞宗寺の中谷潤心と申します。よろしくお願いします。
 
このたびのテーマは「感情」とのこと。あらためて「感情についてお話してみてください」と言われると難しいものですね。
私が「感情」と聞いてパッと思いつく言葉は「喜怒哀楽」とか「悲喜」という言葉でした。

それらは代表的な感情でしょうが、では世の中に感情っていくつあるんでしょうか…?4つ…?2つ…?
 
 インターネットで調べてみると、例えば或る研究者さんは、8つの基本感情と24の応用感情というものを提唱されていたり、
仏教に関係するものでは、ダライ・ラマ14世が心理学者の方と、5大感情を計46種類に細分化した「感情地図」というものを提唱したりしています。
 
なるほど、では感情は最大で46種類あるものでしょうか。どうでしょう。
 

ちょっと「感情」とは別物ですが、有名な仏教の名数(数の括り)を見てみましょう。
 
皆さん、除夜の鐘なんかでもよく聞く、「煩悩」って幾つあるでしょうか。

…煩悩は108つと言われます。これはあまりに有名ですから条件反射みたいに108つと答えてしまうでしょうが、「さあさ煩悩どれでもでござあ!ピンからキリまで108つ揃えてます」っていう感じってより、無明の闇のような得体の知れない、人間のエゴとか、暴力的なまでの欲望があって、それと向き合い、取っ組み合うために、仏教の先輩たちが分析して、108つのサンプルを抽出したものです。

ところで、一般にお坊さんというと、そんな煩悩を離れた、清廉潔白の人ってイメージがあるかもしれません。確かにそういう立派な方もおられるでしょうが、では、この私はどうかというと、煩悩こそ私の地体であります。
 
 情けないけど、自分のこと語れば、私なんての煩悩は底がないんですね。尽きせぬ煩悩。有限じゃなくて無限の要求。不可算の強欲。恥ずかしながらそれが私の赤裸々な姿です。
 
閑話休題。感情もそう。煩悩もそう。そもそもとてもカウントし切れるものではないけれど、その道の碩学たちがとことん吟味して検めて、24とか46とか108とかのラベリングをして、我々が取り扱えるとっかかりをつけてくれたと捉えるのがいいでしょう。
 
さて、煩悩にも関係することですが、またも数の括りで、「三毒」というものがあります。人間は3つの毒を持ってると。それを「貪瞋痴」と言います。

それがまず、貪・貪欲(とんよく)。どこまでも必要以上にむさぼることです。次に瞋・瞋恚(しんに)。いかったり、怒ること。最後に、痴・愚痴(ぐち)。道理に昏く、常に迷っておるということ。このむさぼり・いかり・まどうという3つの悪徳を仏教では自他を蝕む毒だと言っているのです。
 
だからこの三毒を修行によって、減らしたり、無くしたり、またコントロールしましょうというのが仏教の大道。仏様とはあたかも、人間を毒抜きする一流の料理人です。
 
さて、今たとえで料理人と言いましたが、お釈迦様はインドの方ですから、経営する料理屋はインド料理屋でしょうね。看板メニューはカレーでしょうか?…じゃあ、それがいつどこでどのように、我々日本人好みのカレーになったのか。それは「和国の教主」、つまり日本のお釈迦様なんても言われる聖徳太子のはたらきによります。

聖徳太子が定めた『十七条憲法』のなかの一節。そこには国家論や行政や司法のことが書いてあって、その文脈の中の5条目と10条目に、「餮(あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(たからのほしみ)にすることを棄てて」と、「忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもえりのいかり)を棄てて」という文言があります。

飲食の欲求や物的ものへの飽くなき欲。直感的に受け入れられないものごとに顔を真っ赤にして怒り、信条に反するものごとに青筋立てて怒ったり。むさぼり、いかり…。
これって、まさに貪欲と瞋恚ですよね。貪瞋癡の三毒を離れることを旨とする、インド発の仏教という外来思想が、いつどのように日本に受容され、浸透したのか。『十七条憲法』の制定は、そのことを考察する、ひとつの重要なターニングポイントであり、ここに世界宗教たる仏教の、最初期のジャパニゼーションの跡を見ることもできるのです。
 
 
じゃあ、日本のお釈迦様・聖徳太子の言いつけを守って、自分自身が三毒を捨てられているかというと、前述のとおり、なかなかそうはいってない。そんな私の在り様を、真宗の宗祖・親鸞(しんらん)という方は、既にその書き物の中で、私のそんな本性を喝破しておられます。
 
それが「已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧」という言葉です。

「私は無明の愚痴のもので、いつも愛を貪り、憎悪の瞋りがあって、それが雲や霧のようにして、真実の信心の空を覆いつくしている」と。「貪愛瞋憎」という語の中に「愛憎」という語が秘められていますが、「愛」は「好む」こと。「憎」は「にくむ」こと。両極端のようで表裏一体のような2つの感情。人間は概して、貪りの濁流に身を攫われて、瞋りの炎に身を燃やし、愛憎を振り回し、愛憎に振り回され、人に対しても、愛憎を振りかざして付き合っています。
「好き」という気持ちに固執し、思いがけない行動をしたり、「好き」が転じて相手を恨めしく思ったり。「憎い」とか「嫌い」って気持ちで、相手を傷つけたり、争ったり。
誰かを自分のものにしてしまいたい独占欲も強いし、反対に、現に関わりある誰かをないもののように避けたり、ないがしろにしていることもあります。

…思い当たったりしますでしょうか…。私なんか心当たりしかありません…
私の愛憎は強烈で、私の三毒は猛毒なのです。
 
けど、親鸞はそんな私に仏道の門を閉ざしません。そんな人間関係の愛憎や利害や恩讐というものに対して、阿弥陀仏の悲しみ、慈しみというものが兆すんだと説いています。
真宗の本尊・阿弥陀仏は、止むに止まない三毒や愛憎に身悶えしている者こそ、即ちこの私こそを救いの目当てとしておられます。
謙遜でも大袈裟に言ってるわけでもなくて、自分を見つめてみた結果、身の事実として、私という人間は、どうやら今生の限り、三毒尽きそうにない。けど、阿弥陀仏は、「たとえこの身が毒にまみれて果てようと後悔しない。我が名をよんでくれ。後生のさきまであんたに付き添う。どこまでもあなたを見捨てない。」ということをお経の中ではっきりと述べておられます。
 私のゆく仏道は、この阿弥陀仏や親鸞がしめしてくださった、私のため、私のような者の唯一の道なのです。
 
 
…ところで、「貪愛瞋憎之雲霧」とか、聖徳太子のところで出てきた餮(あじわいのむさぼり)とか、欲(たからのほしみ)とか、忿(こころのいかり)とか、瞋(おもえりのいかり)とか、あまり聞いたことない言葉ですよね。漢字一文字にこんな長い読み方をするなんてって思うかもしれません。
 
感情表現の豊かさや、それを表す言葉の緻密さ、またはその観察や描写において、日本語の繊細さや美しさを感じたりもいたしますが、言い難いものを表現していただいたのは、先人の偉大なお仕事ですね。
 
感情ってのは、分かりやすいのもあれば、よく分からない、内面からたまらず溢れ出す感情もあります。
 
歌でも、映画でも、ドラマでも、感動できる作品ってのは素晴らしいものです。しかし、本当に優れた作品ってものは、観た人が驚いたり、困惑したり、呆気にとられて茫然自失するものです。
それらは自分の持ち合わせた知識や感性が通用しないものであり、自分の認識や了解の範疇に収まらないもの。商業作品では「共感」や「感動」、「拍手喝采」「スタンディングオベーション」っていうのも優れた評価の指標でしょうが、そういう共感や感動の埒外にこそ見出せる真価もあります。
 
古語で「驚く」とは「目が覚める」という意味があります。我々は意外なことがあったら驚きますが、それは自分の理解が及ばない圧倒的な世界に触れたわけであり、これまで気が付かず、思いもよらずいた、そんな世界に目が開くのです。
そしてその言葉にできない驚き、言葉にならない感受を自他にあきらかにするため、かろうじて言葉を紡ぐこともあれば、覚ました眼をまたゆっくり閉じていくこともあります。それだけ思考を言語化するってのが難しいわけでもありますが、これは仏教史の営みについてもきっと同様です。
 

あらゆる仏道の先人が法にであい、その驚きや感得を言葉で整理してきました。またその言葉を通し、真理の一端を垣間見た者が、それを言葉で表現しました。これの繰り返し。その転輪するサイクルを仏教史と呼ぶのでしょう。
 
そして、私はこの遥かなる仏教史の営為を、この我が人生のうちにも発見するのです。
 
我々はしばしば、生きる上で免れ得ない感情や激情に出くわします。
 
嬉しい、楽しい、悲しい、さみしい、羨ましい、怖い、きらい、すき、ほしい…
 
…時には、こういった知っている感情と違う、「名前のない気持ち」を抱くかもしれない。
嬉しいようで、楽しいようで、悲しいみたいで、さみしいみたいで、羨ましいほどで、怖いくらいで、きらいできらいでしかたなくて、すきですきでどうしようもなくて、たまらなくそれがほしくて、けど手に入らなくて、本当にほしいのがなんなのかもわからなくなって、とりあえず埋め合わせがほしくなって…
 
けど、いくら美味しいものを食べても、お風呂にはいっても、一夜明かしても、お酒飲んでも、薬飲んでも、気晴らしや慰安で旅に出ても、いくら徒(いたずら)に人と交わろうとも、満たされなくて、ずっと苦しくて、しばらくモヤモヤして……。
そんな、言語化するのが難しい、名前を知らない、未知で不可知の、雲霧曇天のような気持ちを抱くことがたまにあるかもしれない。

 
けど、大丈夫。それは「君だけの気持ち」なんだから。

君だけが感じた、君だけの気持ちに、そも名前なんてついていないのです。
感情のままに、感じているままに、ゆっくりその気持ちの根源を確かめてみたらいい。
仏教は、その作業の先鞭をつけてくれています。
あなたがあなたの心と、あなたがあなた自身と向き合っていくためのヒントです。

お話の後半は、数か月後にYouTubeにアップされるそうです(>_<)

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