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お寺の掲示板 【No.44/柊原のお寺・真宗寺/2024.10月】

仏道をならうというは、
     自己をならうなり

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道元禅師の『正法眼蔵』の言葉。

「自己」とは何だろうか。
どんな着眼点で「私」というものを語ることが出来るだろうか。

仏教には様々なアンサーがある。

たとえば「無」であると。
確固たる「我」があるというのが錯覚だ。「我」なんてのは幻みたいなもの。あるように見えるもの。私というのは外界の全ての結果として仮にこんな物理的な質量をもって顕れ出たもの。

じゃあ、その外界を構成するエッセンスは何か。

いわゆる原子論なわけだが、仏教では「アヌ」という微粒子や、地・水・火・風・空を「五大」といって、世界を細かい要素に分析してみることもする。

他にも「私は仏になるタネを秘めているもの」だとか、ずばり「愚」が私だとか、「凡夫」なるが私なのだとか、「煩悩」が我が地体だという。


さて、これらのアンサーはまだ君のアンサーじゃない。
先人たちが悪戦苦闘の末に獲得した、ひとつひとつの到達点だ。
君は君で君なりのクエスチョンを持って生きてゆかなければなるまい。
我々は、仏教や真宗に自己を学びゆくのだ。

「自己と何ぞや。これ人世の根本的問題なり。」
                  清沢満之


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釋 潤心(柊原のお寺 真宗寺)
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