【The Evangelist of Contemporary Art】第14回光州ビエンナーレ―水の美的教育について(その2)
その1より続き
3. ビエンナーレ・ホール【2】:この道は祖先を迂回して抵抗へと続く
今ビエンナーレは、次のスペースGallery 3で、祖先(Ancestor)という過去の声(19)に傾聴することで迂回の戦略を採る。そこから、未来の生の知恵(20~24)を汲み上げるのである。それが、その先のGallery4(25~29)と5(30~33)に展開された個別の作品に、満遍なく批判と抵抗の力を与える。だが、それは弱いものが強くなることではない。Gallery 5のRobert Zhao Renhulの映像によるシンガポールの自然環境の汚染(34~37)を見れば分るように、自然は人間の進歩主義的イデオロギーに対して脆弱性をさらけ出す。自然を守る(人間と自然の調和)のは、自然と人工の両方の性質を持つ人間の力なのだ。批判と抵抗の力の源泉は、Gallery 6のGuadalupe Maravilla、Arthur Jafa、Meiro Koizumi、Naiza Khanの作品(38~45)のように、あくまでアンビギュイティの解消、つまり弱さと強さの融合にある。
以上が、ビエンナーレ・ホール(Gallery 1~6)の展示作品の総括である。だが、そこにテーマやサブテーマの例証の作品はあっても、それが提起する問題に対する解答(結論)はなかった。「水のアンビギュイティの解消の果てに何が現れるのか?」という問いへの答えである。ビエンナーレ・ホールのGallery4と5の作品による抵抗は、そのプロセスである。勿論、このプロセスが重要なのは言うまでもないが。
容易に想像されるように、結論に関してはメイン会場のホールの外の4つの会場を待たなければならなかった。次節では、それらの会場の展示作品から今ビエンナーレが提出したと思われる結論を推測してみよう。
※その3に続く
(文・写真:市原研太郎)
■今までの市原研太郎執筆ブログ https://tokyo-live-exhibits.com/tag/%e5%b8%82%e5%8e%9f%e7%a0%94%e5%a4%aa%e9%83%8e/
市原研太郎
Kentaro Ichihara
美術評論家
1980年代より展覧会カタログに執筆、各種メディアに寄稿。著書に、『ゲルハルト・リヒター/光と仮象の絵画』(2002年)、『アフター・ザ・リアリティ―〈9.11〉以降のアート』(2008年)等。現在は、世界のグローバルとローカルの現代アート情報を、SNS(Twitter: https://twitter.com/kentaroichihara?t=KVZorV_eQbrq9kWqHKWi_Q&s=09、Facebook: https://www.facebook.com/kentaro.ichihara.7)、自身のwebサイトArt-in-Action( http://kentaroichihara.com/)、そしてTokyo Live & Exhibits: https://tokyo-live-exhibits.com/tag/%e5%b8%82%e5%8e%9f%e7%a0%94%e5%a4%aa%e9%83%8e/にて絶賛発信中。