見出し画像

虚無気味の世界にカピバラの顔を描く

いきなりですが、誤字脱字がおそらく大量にあると思うので広い心で受け止めてくださると嬉しいです。

はじめに

 発売日の朝一で近所の本屋に走って買いに行き、9:30には一丁前にコーヒーを入れて、机に向かって本を読み始めました。
 最後にナナメの夕暮れ(単行本)を読んだのが4月の終わり際だったので、もう7ヶ月経っています。「明日のたりないふたり」よりも前ですね。
 文庫版のために書き下ろされた17,000字だけを読んでも良かったのですが、「最初から読み返した方が絶対良いよな」ということで3周目のナナメの夕暮れを読み始めました。
 読み進めていく中で、7ヶ月前に読んだ時と自分の感じ方・考え方が変わっている箇所の多さに驚きました。単行本の箇所も含め、最近の自分の悩みに直接ぶっ刺さってくる内容が多かったです。ピースの又吉さんが自身の公式YouTubeチャンネルの動画内(リンク)でおっしゃっていましたが、やはり本は何度も再読した方が良いなと思いました。感じ方が変わった箇所。理解できるようになった箇所。それらにハッと気が付く瞬間は、嬉しくもあるし、同時に残念でもあって、なんとも形容し難いです。
 文庫版のために書き下ろされた部分を読んで、「明日のたりないふたり」を見た後に自分の中を悶々と渦巻いていた悩みを、一つひとつ潰してもらった気がします。「いや、ずっと悩んでたけどここに答え書いてあんじゃん」ってことの連続で、自然とボロボロ泣いてしまいました。

 上に添付した記事が7ヶ月前にナナメの夕暮れの2周目をしたときに食らいすぎて書いたものです。一応貼っておきます。

 一応、文庫化にあたって若林さんが書き下ろした部分に関しては文章の引用を控えます。是非、文庫版を購入して読んでみてください。

 こうして若林さんのエッセイを何度も読んでいると、若林さんが日常の小さな一コマからえげつないほどの思考が展開させていることに気が付かされます。「ゴルフの打ちっぱなしでよく飛ぶ打ち方を教えてもらった」というところから思考が展開され、そこから自分事へと落とし込む速度に驚かされます。「僕でいうところの〜」なんて言い方で一瞬で自分内の話に展開され、読んでいるだけで感嘆の声を上げさせられます。「ナナメの夕暮れ」になり、「過去の自分だったら否定していた」「過去の自分は否定していた」なんて言い回しが多く出てきます。世界を肯定できるようになったこととその自分事に落とし込むことが相まって、今の異常なまでの懐の広さというものが生まれてるんじゃないかなと思ったりしています。
 そして、自身のことを「プライドが高い」と言葉にしているのも凄いなと思います。僕は自分のことを「プライドが高い」なんて言えません。逆に僕は「いかに自分のプライドが低いか」ということを説こうとしてしまっています。薄々「プライドが隠しきれていなんだろうな….」とは思ってきていますが、それを言えるメンタルはまだありません….。
 あと、過去の話の描写に驚かされます。現在の出来事とそれに似た過去の出来事のリンクのさせ方。過去にした思考の忠実すぎるくらいの言語化。どれをとってもえげつないです。
 最後に、急に展開され始める想像やイメージと現実を行ったり来たりする話です。個人的には、こういった話は3周くらいしないと言いたことが何も掴めずなあなあになったまま読み進めてしまいます。「2009年とぼくと」とか「明日のナナメの夕暮れ(文庫版のためのあとがき)」とかがこれですかね。

=============

 そんなこんなで、3周目で感じたことを書きたいと思います。

=============

ナナメの夕暮れ(単行本との重複箇所)

他人の正解に自分の言動や行動を置きに行くことを続けると、自分の正解が段々わからなくなる。

若林正恭「ナナメの夕暮れ」p.29 ℓ.3より引用

 「他人の正解に自分の行動や言動を置きに行く」。なんて美しくてわかりやすい日本語なんでしょうか。著者の言い回しを借りるとすると、本当に雷が落ちたような衝撃でした。この一文はすごくしっくりくるのですが、僕の場合は「自分の正解がわからなくなる」という部分はない気がするなぁと感じました。僕は昔から屁理屈すぎる部分がある気がしています。内心では「絶対俺の方が正しい」みたいな”自分の中での正解”があるのですがそれをブチ殺して相手の正解にせっせと行動・言動を置きに行っています。だから、屁理屈もクソもなくなって思考停止し始めたらもうオワりだなぁ、と思っています。


演技はいつかバレて通用しない日が必ずくる。

若林正恭「ナナメの夕暮れ」p.29 ℓ.8より引用

 もう耳が痛いです。自分を取り繕って、自分のボロが出ないようにと嘘をついて演技をしてしまうんです….。ボロが出ないようにした結果、墓穴を掘って勝手に落ちることが本当に多いです。つい先日もやりました。

 授業のペアワークの中で、会話の内容に則した話が僕の引き出しではラジオしかありませんでした。完全に話を捏造すると失敗するのが目に見えているので、事実を少しねじ曲げることにしました。本当は声優さんがやっているラジオはあんまり聴いたことがないんですけど、聴いたことある雰囲気を出しつつ話題に上げました。すると、ペアだった女性が「声優」に食いついてきてしまいました。完全に専門外なので辛うじて見たことのある文字起こし動画の記憶を頼りに応戦したのですが、相手の女性の「声優のラジオ聴くの?」という言葉で無事刺し殺されました。「そりゃ聞かれるだろ」って話なんですが、テンパって普通に「あんまり聞かないんですよね」と言ってしまいました。完全に墓穴掘って、ちゃんと落ちてるんです。
 だったら最初から地上波の話を持ち出せば良かったんですよ。でもその話を持ち出して良い会話が生まれたことがないので憚られます。空気が歪んで、相手に気を使って話を広げてもらうのも申し訳ないし、かといってワンマンで話を展開させる力なんて持ち合わせていないし、独りよがりだと思われるかもしれない。
 最近大学でグループワーク中に雑談をしていて驚くのですが、この世の大学生は想像以上にYouTuberの動画を見ていて、想像以上にアニメを見ています。ラジオを今でも少数派だし、テレビを見ている人も多くないです。それに加えて、自分が「YouTuberの動画を見ない少数派」にもなっていることに気が付きました。この令和の時代、アニメや声優、YouTuberは会話の話題に上げるには些かキャッチーすぎるのだと思います。逆に、他人の正解に自分の言動や行動を置きに行く側からしてみれば、相手の話に身を任せて話を合わせれば良いので軽い気持ちで話題に挙げてしまって、墓穴を掘るんだと思います。

 いつかバレる日が来る。悲しいけど、僕が尊敬する人が言っているのできっとそうなんでしょう。そのために僕にできることは、今すぐ改善することではなく、その結末に備えて自分の中だけで腑に落とそうと努力することだと思います。


自分の意見は殺さなくてもいいということだ。

若林正恭「ナナメの夕暮れ」p.30 ℓ.5より引用

 この文の後に展開されるコンドームの例えに僕は胸打たれました。「うわあ、最近自分が抱えてた悩みの答えここに書いてあんじゃん…..」と思わず泣いてしまいました。「これからは自分の意見を押し通そう!」とか「相手の意見に合わせるのはもうやめよう!」なんて話ではなく、「自分の意見は懐に大切にしまっておけば良い」というだけです。いつかそれを使える場面が来る。もう使っちゃえ!なんてタイミングも来る。急に鎧が脱げる時だって来る。そう示してくれているだけで僕はすごく生きやすく感じます。
 この話に限ったことではないのですが、人生の先輩からの教えを素直に受け入れられないのは何故なんでしょうか。そうして後で、「うわ、言ってた通りじゃん….。言うこと聞いていれば良かったな….」と後悔します。こう考えるとマイナスでしかありませ。ですが、いつか僕にも”夕暮れ”が来た時に自分のことを守ってくれる命綱だと考えれば幾分か気が楽になる気がします。
 若林さんはこの「自分の正解」という章をこう締め括ります。

それを使うタイミングを、ぼくが間違える筈がない。

若林正恭「ナナメの夕暮れ」p.31 ℓ.3より引用

虚無気味の世界にカピバラの顔を描く

若林正恭「ナナメの夕暮れ」p.48 ℓ.14より引用

 この言い回しがすごく好きで、読んで泣きました。
 パンケーキにカピバラの絵が描いてあるだけでそこに感情が生まれる。単なるデコレーションであっても、それ自体に意味がある。”リアル”のままでは意味が感じられないから、デコレーションによって意味を無理やり見出した”ファンタジー”の中を生きるしかない。
 そして、生まれて死んでいくという面白みのない”リアル”にデコレーションされるのは趣味や娯楽らしい。
 「オードリー」のテレビ・ラジオ・ライブは・エッセイは、僕の人生には身に余るほど豪華なデコレーションです。僕にとってのカピバラです。カピバラの群れですよ、もはや。


子どもは自分で稼いで飯を食えない。親に食べさせてもらうしかない。だから、親の期待に応えられないということは子どもにとって死を意味するほどのプレッシャーなのだ。

若林正恭「ナナメの夕暮れ」p.56 ℓ.8より引用

 直近で書いたnoteがこれに直結しているのですが、僕は自分の意見を親に言うことに少し抵抗があります。(詳しくは下に添付したものを読んで欲しいのですが、)例えば服を買ってもらうにしても、テレビ・ラジオを一人で摂取したいがために親の帰省の予定に意見するにしても、「お金を出してもらっている」「自分はお金を出してもらう側」という意識が働いてしまいます。親の「期待に沿う息子」の範疇からそれるのが嫌なので、「これ似合うと思うな」とか、「こっちの方がいいんじゃない?」とかは絶対に否定せずに受け入れます。
 最近父親と成人式で着る用のワイシャツを買いに行きました。これまでは意識したことが全くなかったのですが、襟に凄い数の種類があるんですね。一般的な「レギュラーカラー」、少し襟が開いた「ワイドカラー」や「セミワイドカラー」、襟にボタンがある「ボタンダウンカラー」、襟だけ色の違う「クレリックカラー」などがあります。僕は襟の角度的に「ワイドカラー」が良かったのですが、父親が「ボタンダウンカラー」を推してきたのでそれを受け入れました。後日、自分で電車に乗ってお店まで行ってこっそりワイドカラーのシャツを買いました。
 気にしすぎですかね….。でも、気になっちゃうんです。

 大学生くらいになると「免許持ってる?」みたいな会話が日常的に行われるようになります。とある大学の先輩にこれを聞かれたので「持ってないんですよね〜。まぁ、取りたいとは思ってるんですけど….」と返します。すると結構な確率で「親が取らせてくれないの?親厳しかったりする?」みたいに聞かれます。僕は親のことを嫌いじゃないし、厳しい親だとも思っていません。普通に「免許取りたいんだけどさ」と僕が親に言えばお金を出しれくれるのかもしれませんが、お金を出してもらうことには申し訳なさが勝ってしまいます。実家住みなら家族の足になってあげられるのですがそれも叶わないので、僕にはお金を出してもらうなんて考えはありません。逆に、じゃぁ自分でお金出して免許を取りに行きたいのかと聞かれるとそこまでの熱量はありません。その結果として僕は免許を持っていないだけで、親から実際に「お金は出さない」と断言されたわけではありません。「免許代まで出してもらおうとするなんて図々しい」と思われるのが怖いので、自分からは言い出せないのです。
 だから、”親が厳しいから”免許を持っていないというわけではありません。「父親の”息子像”の中に入っているのかどうか」を僕が勝手に気にしてしまっているだけです。


自身のない人は、失恋すると自分に価値がないと思い込む。相手と合わなかったんだなと思えず、自分が悪かったと思い込む。その価値を取り戻すために相手を取り戻そうとする

若林正恭「ナナメの夕暮れ」p.91 ℓ.15より引用

 僕は恥ずかしながら恋愛をしたとがないので経験したことのない話ですが、こうなる未来がたやすく想像できてしまうのが怖いとことです。
 恋愛に限らずとも、この「自分の価値を周りに求める」というのは生じると思います。

 僕の場合は典型的なこれな気がします。
 「自己評価と他者評価の乖離」なんて言うと「こんなに自分は頑張っているのに誰からも評価してもらえない」という意味に思われるかもしれませんが、真逆です。謙遜とかそんな話じゃなくて、自己評価のわりに他者評価が高いと苦しくなります。「特段努力をしているわけでないのに他人から評価させることが才能なんじゃないか」という考え方もありますが、僕はまだそこまで思い上がれるメンタルは持ち合わせていません。
 自己評価が当てにできないから他者からの客観的な評価を頼りにするしかないのですが、そこに忖度・建前・お世辞が含まれている可能性を拭いきれません。「忖度・建前・お世辞」なのに馬鹿正直に受けとって、真に受けて、喜んで、才能があるように思い込んでしまったり、「嘘なのにいい気になってやんのwwww」って思われるのが怖いので、他者評価を信じきれません。自分の価値をどのように見出せばいいのかわからなくて、苦しい毎日です。
 自己評価に頼れないという時点で、自分の価値を他者に丸投げすることになってしまいます。そこで僕が苦し紛れに生み出したのが、アルバイトを頑張ることで自分の価値を感じることです。

上記のnoteがそれです。簡単に言うと、アルバイトはこういうフローチャートで表せると思います。

店「バイトを募集する」→バイト「バイトに申し込む」→
店「採用して雇う」→バイト「時間を提供する」→
店「それに給料を払う」→バイト「労働をする」

アルバイトなんて「いかに楽するか」というコスパの勝負なのかもしれませんが、僕には少し納得がいきません。その他の何かしらから十分自分の価値を感じれている奴らは好きなだけサボればいいです。コスパでバイトして、勝手に楽しい人生でも送ってればいいんです。
 僕は、バイト先から払われる給料は拘束される時間に対して支払われていると思います。どれだけ暇であろうが、トイレにいく回数が多かろうが、時給は変わりません。時給に見合った仕事量をすれば「時間をお金に変える錬金術」の完成だし、仕事量でサボればよりコスパの良い錬金術になります。で、僕は時給以上の仕事量を生み出せた時、その超過分は確実に僕が生み出した価値であり、そこに自分が生きていることの価値があるんじゃないかなと思っています。「仕事量が時給を超えたかどうか」はあくまで自己評価に過ぎませんが、自分の価値を自分に委ねられるようなるための一歩だと前向きに捉えたいと思います。
 逆に「ちょっとだけ信頼できる他者評価」というのも存在しています。それは、「〇〇さんが褒めてましたよ」といった感じでその場にいない人が褒めていたと伝えてくれるパターンです。(伝聞でしかないのでねじ曲がってる可能性も大だし、直接的な責任を逃れるために勝手に名前を使ってるだけかもしれないですが。)


若者は社会のゲストで、おっさんはホスト

若林正恭「ナナメの夕暮れ」p.107 ℓ.8より引用

 年齢を重ねていくと、人見知りだとか人の目が気になるだとか言ってられなくなる。旗を振って先頭に立たないといけない時もくる。
 僕は意外と班長・部長・サークル長みたいなことをやってみたいと思うタイプなのですが、先頭に立って大きい声を出せないし向いていないのでやってきませんでした。逆に、副班長や副部長みたいなのことをやることが多かったです。なんか、ちょっとだけ偉そう(威張っているの意味ではなく)な雰囲気が好きでした。別に僕が支持をしたりするわけでもなく、メンバーから冷ややかな目線を浴びることもありません。でも、長が休んだりした時に急芸に責任がのしかかってくるので苦しいです。中学では美術部に所属していて、友達の男が部長、僕が副部長を部員の女子たちに押し付けられていました。春に部活の勧誘をする時はステージ上に駆り出されるし、部が賞を取れば代表で賞状を受け取らされ、部活の出席を取らされ、部室の施錠と鍵の管理、「そろそろ帰りの準備して〜」という声がけ。部長がいれば良いのですが、いない時は僕がやることになり、どれも僕には荷が重いです。普段やっていないから、急に僕が旗を振り出すと「ボスがいないからってイキってるな〜」と思われるのが怖くて声を張れなくなってしまいます。
 先頭に立って責任を背負わないといけない場面は、家庭ができたり歳を重ねれば自然と増えてしまいます。最初にも書きましたが、人見知りだとか人の目が気になるだとか言ってられなくなっていきます。


そういうゾンビは噛みついて”生きてて楽しくない”を感染させようとする。人前で愚痴や弱音を口にして、”生きてて楽しくない”に他人を巻き込もうとするのである。

若林正恭「ナナメの夕暮れ」p.107 ℓ.8より引用

 先日、親戚の前で持論を展開しまくってしまうという夢を見ました。本当に、夢でよかったです。
 あの状況がもし現実にあった場合、僕は懐にそっとしまったコンドームを取り出すべきなのでしょうか。僕は「いや、違うよなぁ….」と思います。
 捨て身で挑める相手か信頼できる人なら良いのですが、”親戚”はコ非常にセンシティブな関係です。簡単に切り捨てられるものでもないし、拗らせたのギクシャクがめんどくさそうです。
 それだったら自分の感情は一旦懐にしまっておいて、親戚にヘコヘコして迎合してやってる方が僕は楽です。自分が損をすることで世界が円滑に回るのであれば、僕は厭わずに本音を隠します。みんな、この世は生きていて楽しい。だから、僕もこの世は生きていて楽しいことにする。
 「気にすることが多過ぎて、この世は生きにくいよな!」と言える関係の人、現れないですかね…..。今はそう言った感情をnoteに吐き捨てることしかできないので。


もちろん、新たな趣味に冷や水を浴びせてくる子さんのファンや腐れ価値下げ野郎は現れた。

若林正恭「ナナメの夕暮れ」p.158 ℓ.10より引用

でも、ぼくがそれを気に留めなかったのは、価値下げ野郎共が何に怯えているのかよく知っているからである。

若林正恭「ナナメの夕暮れ」p.161 ℓ.10より引用

このあいだ、ついにぼくはDJ機器を買った。
それを否定する人はこの世界に誰もいなかった。

若林正恭「ナナメの夕暮れ」p.163 ℓ.14より引用

 「自分と同じ目をした人」という存在に対して、僕はまだ怖さがあります。「意外と否定的に見てきたり冷めた目で見てくる人って少ないかも」と思えたとしても、”自分”という判例のせいで「いない」と断定することはできません。で、若林さんはそういった人に対して「その気持ちわかるよ」と受け入れることができます。僕にはまだソレができないので、どうにかできるようになりたいです。
 自分以外の人の「冷笑・価値下げ」の理由に本当の意味で理解を示した時、この世からようやく「否定してくる人」の存在を抹消できるのかもしれません。極端なことを言うと、「その価値下げ、意味ないよ」と平然と言ってのけられるようにならないといけないのかもしれません。


「明日のナナメの夕暮れ」とアメーバ

 自分の価値基準を信用できないがゆえに、”モノ”の消費・所持への価値が薄れる。だからこそ、時間の感覚や自意識が消えてなくなる”ヒト”や”ヒト”などを目指すようになる。

 若林さんが「星野源のオールナイトニッポン」にゲスト出演された時に「自分と世界の境界線がアメーバみたいに溶けていく」感覚のことをおっしゃっていました。源さんはライブで、若林さんはオードリーでの漫才で、アメーバみたいに世界が溶けていく感覚になることがあるらしいのです。
 自分と世界、つまり自分と他者の区別がなくなっていく。これはもうそのまんま「主客合一」です。
 若林さんが「社会人大学人見知り学部卒業見込」で書いていた「没頭」という言葉があります。先日の大学の講義で「没頭」に近しいことを学んだので、その時咄嗟にnoteを書きました。

 西田幾多郎という哲学者が「純粋経験」という考えを唱えています。これは、主観と客観の区別が無くなって行動そのものに熱中している状態のことを指します。(また、別の言葉で「主客未分」「主客合一」などと言うこともあります。意味はそのままで、それぞれ「主観と客観が別れていない」「主観と客観が合わさる」という意味です。)
 そして、チクセントミハイという心理学者が「フロー」という幸福感・楽しさ・喜びを感じることができるような体験を唱えています。
 「純粋経験」と「フロー」は正確には違うのですが重なる部分も多いので、まぁ、大体同じだと思って下さい。
 フロー状態に入るための条件を挙げると、

1.能力を要する能動的活動:頑張ればできそうな目標の達成を目指す
2.行為と意識の統一(=主客合一):行為に注意が完全に向き、自分を意識しない状態
3.目標設定と評価:達成による手応えと周りからの評価
4.行為自体への集中:行為に完全に注意が向くことで普段の”ネガティブ”を忘れる
5.コントロール:レーシングカーの運転などの危険を伴う行為に対して、自信が湧いて危険を感じなくなっている状態
6.自意識の喪失:行為への集中で主観と客観の区別がなくなり、「自分」という存在がなくなる(→2.と似ている)
7.時間感覚の変化:時間感覚が早まったり遅まったりする

などがあります。
 そして、仕事をしてフロー状態になるより、趣味をする方がフロー状態になりやすいらしいです。趣味は、趣味をすることが目的。仕事は、仕事をすることではなくお金を稼ぐことが目的。前者は「自己目的的」などと言われ、そうであればあるほどフローに入りやすくなります。

 「没頭」によってネガティブを打ち消すことができるのは、「フロー状態」下においては自分と他者という認識ががなくなることで自意識もなくなるからなのだと思います。

 それに加え、若林さんはイノセントな部分が表に現れ相手と一緒にゾーンに入れた時には時間を忘れる感覚になるというようなこともおっしゃっていました。
 星野源さんは、自分とお客さんの間がアメーバのように溶けると「歌詞を間違えないようにしよう」とか、普段脳内を渦巻いているモヤモヤなどもなくなり無心になるとおっしゃっていました。

 上の【没頭】という記事を書いた時には「ゾーン」については省いてしまったのですが、ゾーンに入る時に大事なのは「無心」らしいのです。
 よく例として出されるのは、弓で的を射ようと思ってしまっているうちは真ん中を射抜けない。だからといって無心になろうと思ってしまっても射抜けない。そして本当の意味で無心になった時、指から自然と矢が離れ射抜くことができるようになる、と。

 つい先日、若林さんがゲストの星野源のオールナイトニッポンの録音を聴き返してみたのですが、ようやく「アメーバ」を少し理解できたような気がします。
 まずフローに入ることで自分と他者という認識がなくなり、それによって自意識がなくなっていく。そして無心になり、ゾーンに入る。
 自意識が溶けていく様がアメーバであり、時間の感覚がなくなったり無心になる状態がゾーン。

さいごに

”合う人に会う”

若林正恭「ナナメの夕暮れ」p.224 ℓ.14より引用

 人生の中で否が応でも関わらないといけない家族は除くとしても、今までの人生でそういった”合う人”にあまり会ってきませんでした。
 今の僕にはそんなコミュニケーション能力がなくてnoteに書くのが精一杯だけど、いつか、「ナナメの夕暮れ」を読んだ人と感想を言い合ってみたいです。合う人に会ってみたいです。


ハッと気づいたときには若林さんが遠くで笑っている。

若林正恭「ナナメの夕暮れ」p.264ℓ.6より引用

 「たりてる側に行けない」「都合のいいヘリコプターなんてない」。こういった結末をネガティブに”絶望”として捉えるのもいいですが、「悩んでも誰も解決できない」とか、逆に開き直って「自分だけじゃないんだ」とポジティブに”希望”として捉えてみるのも良い気がしてきました。
 僕はもう少しもがいたり考えたりしたいなと思っているのですが、その先の結論が若林さんと同じだったら遠くから僕のことも笑ってほしいです。


 あと全然関係ないですが、「ナナメの夕暮れ」内に名前が出てくる映画を全部見ようかなと思います。
・キッズリターン
・トレインスポッティング
・フィールドオブドリームス
・ファイトクラブ(視聴済)
・ムーンライト

#206  
#エッセイ #ナナメの夕暮れ
#2021年のおすすめエッセイ  


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集