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ストーリーの時代だからこそ「モノ」に軸足を置く
「モノ」「サービス」そのものの価値では選ばれなくなっている時代。
消費行動はよく
「モノ」から「コト」へ
今では
「コト」から「ヒト」「トキ」へ
と言われているように、人がストーリーや体験・関係性・時間に価値を見出し、選ぶ時代に移り変わっている。
移り変わりのスピードはとても早く、「コト」が大事だからとそこに注力している間に「ヒト」「トキ」へと最も価値を感じる部分は変化してしまっている。
しかし、いくら価値観が変化しているからといってそれぞれの価値が無くなっているというわけではない。
それは、提供する側、受け取る側の自由な優先順位があるだけで、その時代のトレンドということだけである。
さらに今後新しく価値を感じ、求められる部分は生まれ続けていくのかもしれない。
何かを提供する側としては、やはりそのトレンドに乗っかること、付いていくこと、先取りしていくことはとても重要で、リトルツリーとしてももちろん常に気にかけているし、弱い部分でもあるのでアピールはしていきたい。
数年前からパーパス・ESG・D2C・・・などなどいろいろなキーワードや考え方が広まってきていて、個人的にも興味を持って調べたりしていると重要だと感じるし、とても共感している。
実際自分が受け取る側として考えてみてもそれらは重要なポイントだ。
しかし、上記のキーワードが広がりすぎて価値観のトレンドに乗っかろうと、企業が存在意義や考え方、実行していることのストーリーをアピールすることに躍起になっている。
上記のキーワードたちの本質は社内の考え方の根幹にしていくものであるはずだ。
ただ、そうは言っても社外への表明が企業価値の判断基準となる重要な部分であることも理解している。
では何をアピールするのか?
自信を持ってアピールできる何かはあるのか?
そもそも「モノ(サービス)」の価値があるからこそアピールすることができるはずである。
ストーリー(伝えること)
![](https://assets.st-note.com/img/1654685956441-EraZGkL9Wy.jpg?width=1200)
何度も言うが今はストーリーの時代である。
モノやサービス、さらには企業の成り立ちや、歩んできた歴史。
こだわりや、そこから生まれる体験、過程、未来へのビジョン。
いろいろなことがストーリーとして伝えられ、広がっていく。
なぜストーリーを伝えるのか?
人はただの数字だけ、事象だけ、モノだけの羅列では理解に苦しむし、記憶にも留めておけない。
理解し、納得し、記憶に留めるためにはストーリーが必要なのである。
それは世界中の歴史が証明している。
その為、ストーリーを伝えるということは、共感を生むこと。理解してもらうこと。選んでもらうこと。に繋がる本質的な行為であるし、時代の流れも合わさって一番重要なポイントになっている。
ただ、もはやどこを見ても、何を見てもストーリーだらけで、「ストーリーが無ければ売れない」「人はストーリーに共感するものだ」などなど
選んでもらう為のアピール勝負になっている一面もある。
企業は利用する人のコト、トキに貢献したいのであって、選んでもらう為だけに企業活動をしているのではないはずなのにである。
一方でこのストーリー情報過多な時代になり、ストーリー疲れという言葉も耳にするようになっている。
そもそも対象のモノ、サービス、企業のストーリーだけではなく、自分の生活、興味、ニュースなどなど、様々なことに対する情報自体が溢れている。
すでに情報過多な生活に疲れている中、ストーリーまで熱心に興味を持ってもらうこと自体が難しい。
ストーリーを見てくれた場合でも、
かっちり伝えすぎると、受け手としては疲れるし、売り込まれている感覚になることもある。はたまた、胡散臭く感じてしまう場合だってある。
そこには大量に溢れている情報に偏りがあるから余計にそう感じてしまうのだろう。
テクノロジーによる偏り(フィルターバブル)
似ている人が周りに集まる偏り(エコーチェンバー)
カスタマイズされた情報
などの偏りである。
じゃあどうすればストーリーを心地良く届けられるのか?
そもそも届けることが良いことなのかという前提から見直す必要がありそうだ。
なぜならストーリーは必ずしも全員に届けなければいけないわけではなく、知りたいと思う人が辿り着ければ良いはずだからである。
ストーリーを受け取る、受け取らないは自由なはずで、アピールそのものには余白が大事なのではないか。
「ストーリー」を売りたいわけではない
「ストーリーは主役ではなく、あくまで補助線なのである」
直感(伝わること)
![](https://assets.st-note.com/img/1654686013111-YNkXjF3lGV.jpg?width=1200)
昔から「モノが語る」という言葉がある。
特に日本のものづくりはこの意識が強く受け継がれてきている。
しかし、時代の流れの中、同じようなモノが巷にあふれることによって、モノの価値だけでは選んでもらえず、ストーリーに意識をシフトしなければ生き残れないし、受け継いでいけないとの危機感がものづくりの世界では広がっている。
一方で、危機感を抱えながらもストーリーには脇目も振らず昔ながらの「モノが語る」ということに注力する人や企業も存在している。
「モノが語る」ことに注力することは、本当に効果が薄く時代に取り残されてしまっていることなのだろうか?
「モノが語る」
「モノに魂が宿る」
「モノが醸しだす雰囲気」
いろいろな例え方をされることが多いが、この中で
「語る」「宿る」はモノから強い意志が発せられている感覚を覚える。
一方「醸す」はそこに意思はなく、自然と漂うような感覚がある。
モノのわかりやすいメッセージが伝わるように熱量持ってものづくりすることはもちろん大事だけれど、それよりもメッセージが何かは分からないけれど感じるものはあるというような、余白のある「醸す」ものづくりが心地の良い「モノとの繋がり」を生むのではないかと思う。
「モノが語る」ではない「モノが醸す」から受け取る感情は、言葉に翻訳できない、あいまいなもので、頭で理解できていなくてもモノから溢れる何かに入り込んでしまうようないわゆる
「何か良い」
「何かわからないけど好き」
と感じる直感のこと。
「何か良い」が素敵なところは
何かわからないけれど
「思わずコト・トキをしちゃうモノ」
「思わずモノで遊んじゃう」
「思わずモノを語っちゃう」
というような「思わず」に繋がることである。
本当に好きなモノや好きなことって、理由をうまく捉えられていないことが多く、「~~の理由で好き」とはっきり言えるものではない。
反対に解像度高く言えることもあるだろうが、本当にその理由だけで好きという感情に至っている訳ではないのだと思っている。
そこには頭での理解ではなく、「あいまいさ」があり直感で好きという感情が生まれているのだろう。
ストーリーはモノに注力した結果の副産物
「ストーリー」と「モノから受け取る直感」
どちらも大事なはずだから、どちらに舵をきるかではない
「モノ」に軸足を置き、「ストーリー」も手放さない
このスタンスを大事にしていきたい。
「モノ」から抜け出せず「モノ」に注力するということは、結局のところ時代の流れについていけてないだけなのだろうか?
そうは思わない
これだけ社会レベルでも個人レベルでもストーリーが重視されていて、その大事さもわかっている。本当はすぐにでも飛びつきたい気持ちが無いわけではない。
「モノ」に軸足を置くことは、「ストーリー」に軸足を置くよりも、知ってもらうこと、共感してもらうことへの距離も遠いし、時間もゆっくりである。
あまりにもゆっくりで進んでいるのかさえわからないかもしれないけれど、
「モノ」に軸足を置かなければ良いストーリーは生まれてこないものだと思っている。
ストーリーは「モノ」にこだわった結果の副産物である
あくまで「モノ」にこだわり、その過程や思想が「ストーリー」になるのであって、順番を間違えてしまえば将来どこかに歪みが出てきてしまうだろう。
さらには短期的に共感されるかもしれないけれど、長続きはしないのではないだろうか?
では「モノ」に軸足を置くとはどういうことか。
リトルツリーで言えば
一番は遊具やおもちゃを使用した後、また新品と同様の状態へリペアし繰り返し使い続けられるようにしていること。
リトルツリーが扱うものは「木」で出来ているので、
具体的には遊んだ遊具やおもちゃの汚れを削り落とし、新たに色を塗り直す。さらにはコーティングもしていく。
手間と時間ばかりかかる作業の繰り返しで、本当のところ大変だ。そこまでしなくても汚れを拭くだけで提供することも可能ではある。
しかし、そこだけは譲れないポイントで、
なぜかというとそれこそが誇りでもあるし、ただ単純に長く使い続けてほしいという想いがあるから。
長く使い続けるためには、毎回のその手間と時間をかける必要があるのだ。
新しく商品を作ること
ブラッシュアップしていくこと
これらも「モノ」に軸足を置くからこそ出来ることである。
出会うために
「モノ」にこだわり続けて軸足を置き、その結果「ストーリー」が生まれていく。
その生まれた「ストーリー」はどのように伝えていくのが良いか。
拡大ではなく増殖していくようなイメージがリトルツリーには合っているように感じている。
ただありのままを届けて拡大していくのではなく
受け取る人が共感をして
「思わず」人に伝えたい。
「思わず」自分もやってみたい。
などなど地道だけれども根の深い関係が生まれるような伝え方。
どのようにしていけばそのように出来るのかは試行錯誤していかなければ分からないけれど、何かの真似をしても自分たちに対して最適なものにはならないだろう。
「ストーリー」は頭で理解していくものではあるけれど、それを「良い・悪い」「好き・嫌い」などの判断は「モノから受け取る直感」による部分が大きいのだと思う。
理解だけしていても
「何かわからないけど好き」や
「思わず」に繋がらない
そこに「直感」があるから自分の価値観と繋がるのだ。
企業活動をしているかぎりより多くのお客様に利用してもらうことはもちろん嬉しいことだし、持続していく為、やりたいことをしていく為には必要なことではある。
ただ、イメージとして持ち続けていきたいのは
「リトルツリーの仕事をしてみたい」
「一緒に何かしたい」
などなど
「リトルツリー」とどんな形であれ何かを共創できる「好きになってくれた人」と出会いたいという気持ちである。
「モノ」にこだわることで「ストーリー」に魅力を付与し、心地よく受け取ってもらえるような余白があり、力の抜けた伝え方とはどのようにしていけば良いのか探り続けていきたい。
「モノ」にこだわることの延長線上にある課題である。
ストーリーも優劣つかなくなってきている
モノの優劣がつきにくくなりストーリーの時代になっている。
しかし翻ってそれぞれ共感できる、できないの好みは確実にあるけれど、ストーリーそのものも優劣がつきにくくなっているように感じる。
たとえそのストーリーに共感できるからといって、直感的にモノを好き・心地いいと思えなければ、選ばない。
応援の気持ちから選ぶことはあるだろうけれど、モヤモヤが残ってしまう。
「モノ」を自分のこどもに与えると考えてみると
ストーリーへの共感は大事なポイントではあるけれど、「モノ」がしっかりしていることと、「モノ」から受け取る直感を優先して選びたいという気持ちは譲れない。
だからこそリトルツリーは「モノ」に軸足を置く。