『誰のためのアクセシビリティ?』 はじめに/田中みゆき
『誰のためのアクセシビリティ?』 田中みゆき
はじめに
アクセシビリティ(*1)を「アクセスできること」と考えると、多くの人は、それがどのような状態を指しているのか、実感が持てないかもしれない。なぜならその人たちにとって、この社会の多くのものは、自分たちの意志次第でアクセスできるようにつくられているからだ。開けられないドアはドアではないし、どこにもつながらない道はない。あったとしても、それらの欠陥は多くの人たちのニーズによって淘汰され、遅かれ早かれ修正される。一方、アクセスできない人たちが少数かつ、そもそもアクセスできないことによって体験や情報を得ることすら妨げられている場合は、それらのニーズは対応されるどころか、発見されることすらない。
わたしはこれまで多くの障害(*2)のある人と出会い、今も一緒に過ごすなかで、多くの人にとっての当たり前の行為が、彼らには保障されない状況を見てきた。たとえば、駅で延々と介助の駅員を待たされ、乗りたい電車に乗れない。突然点字ブロックが消えてしまい、道を失う。暗証番号の入力を人に頼まないとお金を支払えない。その度に、わたしはこの社会の途方もない欠陥に憤りを感じてきた。今のところ障害がないとされる自分が意識もせずにできていることが、いかに彼らにとって入念な準備と、寛容さ、忍耐を求めるものであることか。そして、しばしば好奇の目に晒されたり、プライバシーを手放さなければならないものであるという現実に。
「アクセスできること」を、「さまざまな身体的・認知的特性にかかわらずモノやサービスにアクセスできるようにすること」と考えてみる。この本を書いている2024年4月には、改正障害者差別解消法が施行され、「合理的配慮」が民間事業者にも義務化された。
内閣府が制定した「障害を理由とする差別の解消の推進に関する基本方針」では、合理的配慮の一例として以下の三つが挙げられている。
コロナ禍に、家から出られないことや人と会えないことが社会に参加するにあたって大きな支障を生む状態を誰もが経験した。そうして、障害のある人たちが長年必要性を訴えてきたリモートでの授業や職場へのアクセスは、瞬く間に実現した。しかし、多くの人が経験していないというだけで、さまざまな種類やレベルにおいて「アクセスできない」人たちの社会参加は阻まれ続けている。それらのアクセシビリティのなさが障害と捉えられてこなかったのは、この社会が、常に自分の体や精神の状態を社会が求める一定の範囲内に収められる人たちを前提につくられているからだ。
では、アクセシビリティさえ確保されれば、公平な社会が訪れるのだろうか。たとえば、映画館に車椅子席を用意する。もちろんそれは、何もない状態と比べたら大きな進歩だ。でも、それだけで果たして、車椅子ユーザーは車椅子の必要ない人と、同じ体験ができていると言えるのだろうか。
たとえば、障害がない人たちは、映画館に行けば自分で好きな席を選ぶことができるが、車椅子席はたいてい一番前か後ろ、あるいは端に固定されている。障害のない人が、その人がその人であるという理由だけで誰かに勝手に席を決められたら、理不尽に思うだろう。しかしそんな事態が、障害のある人には四六時中、休むことなく生じている。
少なくとも、映画館の階段にスロープを付けて終わり、映像に字幕を付けて終わりというだけでは、本当の意味でアクセシブルな社会にはなっていかない。その周辺にはまだ、障害のある人への落とし穴がたくさんあるからだ。映画を観る体験へのアクセスは、映画館の中だけで完結する話ではない。誰かの力を借りないと予約できない、会場にたどり着けない、といったこともその一部だ。
そうやって挙げていくと、アクセシビリティがチェックリストのようにどんどん溜まっていくような印象を受ける人もいるかもしれない。でも答えはシンプルで、人が「映画を観る」体験にはどういった行為が含まれているかを、マジョリティとは異なる体を持つ人たちとともに考えることから始めればよいのだと思う。
わたしは、アクセシビリティのままならなさと可能性に惹かれ、活動をしてきた。一般的に、アクセシビリティは、障害のある人がない人にできるだけ近づくことを目指して考えられていることが多い。一方で、表現に関するアクセシビリティは、障害のある人がない人と同じように体験するということを超えて、さまざまな違いを持った人が自分の身体で主体的に物事を体験するとは一体どのようなことなのかを考える面白さがある。
それは、たとえば目が見えない人が「ダンスを見る」とはどのような経験なのか、「ゲームをする」という体感はどこから得られるのかといったものだ。アクセシビリティは、障害の有無に関わらず、ひとつの体験の本質を考えることと、必然的につながってくる問いなのである。
そんな時、小手先の対策だけではなく、障害のある人の生きられた経験(lived experience)から学ぶことが多くあるとわたしは思う。アクセシビリティは、ニーズを訴える人をひとりの人間として想像することから始まるのだ。
確かに、機械化や自動化が進み、未解決の問題が山積するこの社会では、障害の有無問わず、あらゆる人の尊厳がどんどん軽く見られるようになっているかもしれない。また、テクノロジーは、障害のある人の生活にも便利さをもたらす一方で、能力主義や効率を押しつけるエイブリズム(健常者の価値観にもとづく差別)を加速させる危険性もある。アクセシビリティを考える過程は、そういった複雑な問題をほどいていくことでもあると思う。その扱う範囲は広大だからこそ、ひとりやひとつの組織で担いきれるものではない。それぞれが、それぞれの方向からできることを積み重ねていくしかないのだ。そしてその先には、いまよりも多くの人が生きやすい社会が待っていると思う。
たとえば映画やゲームについたアクセシビリティも、マジョリティがつくったものを障害のある人に伝えようという意図でつけられている限り、エイブリズムから逃れられない。本当の意味で公平な社会をつくるには、障害のある人がモノやサービスの受け手に留まっているのではなく、つくり手として社会に参加し、自分たちの物語を生みだしていく必要がある。しかしそれを実現するためにも、マイノリティへの機会の不平等を解消する教育や専門知識へのアクセシビリティが必要になってくる。
これから書くことは、わたしが個人的に出会って交流や協働をしてきた、さまざまな障害のある人たちとの経験にもとづいている。障害のある人がいる環境が当たり前にあったわけではないわたしが、大人になってから障害のある人たちと出会うことで気づいた「障害」という概念の曖昧さ、自分たちの社会が向かう先のこと、人間の逞しさやおかしみについて、アクセシビリティを軸に書いていこうと思う。
アクセシビリティは一筋縄ではいかないし、ひとつの答えがあるわけでもない。敢えて言うなら、答えはひとつではない、ということが答えと言えるだろう。しかし、この本を読み終わる頃に、アクセシビリティの先にいるのが、生々しい身体と経験、文化を持った人間であることを少しでも想像できるようになってもらえたなら、わたしたちはともにアクセシブルな世界に近づくための対話を始めることができるのではないかと思う。
*1 日本では、「バリアフリー」が物理的なバリアを超えて「心のバリアフリー」など幅広い範囲において使われているが、海外では「アクセス」や「アクセシビリティ」の方が一般的なため、この本では法令などで明記されている場合を除き、基本的にはそれらを使っていく。
*2 障害が個人の心身機能が原因ではなく、障害がないことを前提に社会がつくられていることにより障壁が生み出されている状態と考える障害の「社会モデル」をもとに、この本では「障害」という表記を使う。社会モデルによれば、障害は個人が責任を負わされるものではなく、社会全体が事実として向き合い、変わっていかなければならないものだからだ。
(2024年7月1日、書籍に合わせて内容を改訂しました)
著者:田中みゆき
キュレーター、プロデューサー。「障害は世界を捉え直す視点」をテーマにカテゴリーにとらわれないプロジェクトを企画。表現の見方や捉え方を障害のある人たち含む鑑賞者とともに再考する。近年の仕事に、映画『ナイトクルージング』(2019年)、21_21 DESIGN SIGHT企画展「ルール?展」(2021年)共同ディレクション、展覧会「語りの複数性」(東京都渋谷公園通りギャラリー、2021年)、『音で観るダンスのワークインプログレス』(KAAT神奈川芸術劇場ほか、2017年〜)、『オーディオゲームセンター』(2017年〜)など。2022年ニューヨーク大学障害学センター客員研究員。美術評論家連盟会員。共著に『ルール?本 創造的に生きるためのデザイン』(フィルムアート社)がある。
*『誰のためのアクセシビリティ? 障害のある人の経験と文化から考える』(田中みゆき・著/リトルモア刊)は、2024年7月29日全国発売。