久々の自分に挨拶できるか。
偶然入ったその喫茶店は、どこかに置いてきた自分の一部に出会うような空間だった。好きな作家や写真家の作品がここそこに並び、厳選された感じの酸味のある浅煎りのドリップコーヒーが美味しい。カレーに惹かれつつ有機野菜のスープを頼むと、クリーミーなサラダが付いてきた。炭水化物以外での腹具合も満たされ、視界の隅で厨房でひとりテキパキと仕事を捌いていくリズミカルなひと気がまたちょうどいい。
新しい波の中で、置いてきたものを取り戻しつつ毎日を生き進めているが、流れの中で、たまにふと、実らせることが出来なかったアイデアに無性に悔しさが立ち込める。忘れていた記憶が、芋づる式に蘇る。
求めたものに近づくほど、求められる姿に応えようと精一杯になって本質をみのがしてしまってるということがある。そんな状態に長らく身を任せすぎてしまったのかもしれない。慣れるとは恐ろしく、日常という確信犯は思考を分断し、飛躍を妨げる。
自分の中の振り子の幅に辟易することもある。いっそ、山奥の修行僧のような生き方に憧れるときもある。「おかれたところで咲きなさい」の一説に納得しては反発する。
人生は選択の連続で、その時そうありたいと願った結果の現在のはずなのに、あの時どうしてこれを何処かに置いてきてしまったんだろう。そう思わせる水源こそが自らの核心なのだろうか。それともただのレミネッセンスなのか。久しぶりに出会った過去の自分に明るく挨拶できずにいるだけなのか。疲れているだけならいいんだけれど。
帰ると家族が「ニューシネマパラダイス」を観ていた。久しぶりに観ると、大人のテトの方に感情移入している自分に驚く。広い世界で羽ばたくようにと村を追い出したアルフレードの訃報を聞くまで戻らなかったテト。あの時の若かりし彼の人生は確実に村にあったけれど、外に出ると彼はアルフレードの願った通りの大成功を納めた。大きな分かれ道から遥か遠くまで歩いた自分と、変わらない進歩を続ける街と大切な記憶。
我らには未来しかないとつくづくおもう。
前を向いて、自分が今すぐできることを真摯にやるだけだ。
考え過ぎずに直感を研ぎ澄まして楽観的に。