#58 ぼくはもう、こわれてしまいたい。
「自信」がとにかくない。
不惑のハズの40歳を前にして、迷いと戸惑いの最中である。
あと2年くらいで、不惑の境地に至る事が出来るのだろうか?
それこそ自信がない。
会社を経営しておきながら何をしたらいいかよくわからないままだし、やりたいこともこれと言ってあるわけでもない。流れ流れてここにいるだけである。果たしてこんな状態で、従業員の人生を保証できるのだろうか。
でるのはため息ばかりだ。もういっそのこと、全て投げ出してしまいたい。ぼくは、ぼくはもう・・・
そんな気持ちになっていたら、誕生日企画としてドラえもんチャンネルがまんがドラえもんを期間限定で無料公開中だった。
公開期間:9/5(火)〜9/8(金)AM10時
で公開されているのは、名作「好きでたまらニャい」である。
お早めにご覧いただきたい。
この回には有名なコマが沢山ある。
まず表紙でぶっ飛ばしてくる爆速の面白さ。
これ、もしかして本編の前夜なのかな?満点の夜空が窓に映る。トゲの無い薔薇。プリントアウトして愛する人へのプレゼントに張り付けたい。ラッピング材としても使えそうな素晴らしさだ。あぁ面白い。存在しないだろうが、カラーで欲しい。あぁ、欲しい。
あれ、この目って雲の王国で壊れた時にも同じ目になってなかったっけ?そう思って探してみた。
次に、どうしても良く見ていただきたいのが、この「だってん」2コマ。
それぞれ意味合いの違う「だってん・・・。」の味わい深さ。
2つ目の・・・の多さが違う事に注目してほしい。
言いたい事の多さが違う表現だ。
そして、背中を押すのび太、指をさして糾弾するのび太。
その表情の豊かさ。感情の表れ。・・・いい。
この話には最近はほぼ描かれることがない、互い違いの目のコマまである。
ずっとなぜこのコマののび太の目が上下互い違いなのかが謎だったが、家人の「上下するかつおぶしを落とさないように見てるんじゃない?」と言う奇跡の一言で、全ての謎が解けて消え去った。たぶんそうだわ、すげぇ。
だが、今回僕の胸に一番突き刺さったのはこのコマである。
とっても珍しい角度でのドラえもんである。他であんまり見る事が出来ない。
泣き叫ぶとはこういう事だと言わんばかりに鼻から下及び下顎のアングルで描かれている。天を仰ぐような慟哭(どうこく)、絶望と悲しみが胸に訴えかけてくる。
両腕は口の横に添えられている。絶望しすぎて叫ぶとき、パニックに近いそれは、手を顔の周りに持ってこさせる。手をわなわなと震わせながら、大声で叫ばずにはいられない。そんな表現にも思える。
集中線がコマの左上に描かれている。ドラの叫びが勢いを持って発せられたからである。大粒の涙が、左右に飛び散っている。それでいて、のび太を描くスペースは十分に取ってあり、ゆがんだ吹き出しが見事に配置されている。すさまじいバランス感覚。このコマもまた、額に入れて飾りたいレベルだ。
構図や配置の事はさておいて、何がこのコマを良い物だと感じさせるのか。このコマの人間臭さ、そしてあるあるの表現じゃないかと思う。
あまりにも人間臭いドラえもんの泣き方。ここまで大泣きする大人を見る事は少ないが、子供が無く姿を想像するとこれに近いような気がしてくる。子供の泣き方は有り余るエネルギーを発散するかのように、爆発するように、それでいて壊れたアラームの様に続く。
そんな、誰もが見た事のあるような大泣きを、普段は頼りがいのあるドラえもんがする訳だ。読者としての僕は、このドラえもんが弱みを見せる姿に、親近感を抱くとともに、どこかで見た事があるような気がして、より身近に感じる。
あるあるの表現というのは、のび太の表情の事を指している。絶望で慟哭する人の後ろにいた事はないが、もしあなたがのび太の位置にいて、ドラえもんが泣き叫ぶのを目の当たりにしたら、こんな顔になってしまうのではないだろうか。どうしたらいいのか、困ってしまうという表情だ。ここにいたらこういう顔になるよね、あるある。これに共感しているのだと考える。
それでは、セリフを見て見よう。
「ぼくはもう、こわれてしまいたい。」というのは、つまり「ぼくはもう、死んでしまいたい」という意味だ。とても強い言葉だ。そういう意味だと思って見返してみると、ドラえもんがどれだけ思い詰めているのかがわかる。
句読点の位置にもこだわりを感じる。
「ぼくはもう、こわれてしまいたい。」
ぼくは、もうこわれてしまいたい。ではないのだ。違いを知る為に、声に出して読んでみてもらいたい。
、の位置で間をあけて欲しい。
ぼくは、もうこわれてしまいたい
ぼくはもう、こわれてしまいたい
どちらがより絶望しているように聞こえるだろうか。最初の方は後半に行くにしたがって消え入りそうになっていくような雰囲気がある。それに比べて二番目の方は、「、」の位置での間の後に、一気に読む事で勢いがあるので、より演劇的というかドラマチックな気がする。いたたまれなさがこの「、」によって強調されているのだ。あなたに至らない自分であるならば、もうこわれてしまいたい。なんと悲しい恋の話なんだ。
と言おうと思えば言えるが、これはドラえもんの妄想で、実際には相手のネコちゃんには何も言われてすらいないし、単に見られただけである。
ドラえもんがしたように、恋をすると勝手な妄想をしてしまう。
特に相手の事を想っていたはずなのに、ベクトルが自分に向いてしまう時、起こってもいない事や言われてもいない事であれやこれやと考えては、肯定したり否定したりしてしまう。そんな経験が皆さんにも幾分かはおありかと思う。
考えてみれば、恋は脳がショートしているようなものかも知れない。思考回路はショート寸前。そういう意味で、やはり恋はロボット的にも故障でもあるのかも知れない。
心理的に分析してみると、いろいろと考えてはクヨクヨしてしまうのは、やはり自信の無さの表れに他ならない。自分という存在は、自分と言う存在でしかない。それ以上でもそれ以下でもない。どうやって見ても、自分なので取り繕うべきではないのかも知れない。嘘では生きていけないのだから。
結局ドラえもんは自分一人で意中のネコに告白をして、無事友達になる事が出来た。
要するに最後は自分で何とかしなくてはならないし、拒絶の恐ろしさでガクガクと足が震えてしまうほど緊張しても、それでも、やってみなくては分からないのだ。
いろんな人がいろいろと言う事もあるけど、乗せられて見るのもいいし、直感を信じてその話を切るのも良い。何でもやって見なくては分からないのだから。
とはいえ、それでもなかなか腰を上げられないのも事実。
それも人間。それも僕。どこまで言っても自分でしかない。
だってん・・・。