「置かれた場所で咲く」と「咲ける場所に身を置く」
今の僕の頭の中は、「鬱」と「タバコ」しかない。それしか興味がない。いかにして鬱を治すか。いかにしてタバコをやめるか、しか考えていない。鬱に関する本はしこたま読んだ。もう読まない。これ以上読んでも頭がこんがらがるだけだ。もう結論は出ている。後は動くだけだ。
問題はタバコだ。こいつをいかにしてやめればいいのかわからない。もはや生活の一部になっており、ストレス解消の手段がタバコしかないときている。だからやめられない。とりあえず禁煙本を買った。この手の本にはタバコの害についてボロクソ書かれているんだろうなあ。こういう本を読むときは、タバコ否定派とタバコ肯定派の本を読むべきなのだけど、僕はタバコをやめたいので、肯定派の本は読まない。もう禁煙本だけを読んで、洗脳するのだ。もう禁煙本しか読まないぞ。それでタバコをやめてやる。
そんなことより、相変わらず本を買っている。午前中は外出しなければならないという強迫観念が僕にはある。とはいえ、行く場所は限られる。本屋かブックオフくらいしか行くところがない。そうすると、本が欲しくなるだろう。だから買ってしまうのだ。本屋に行くということは本を買うということなのだ。スーパーやコンビニに行って、品物だけ見て帰る人はいないだろう?それと同じだ。本屋に行くと本を買うのだ。またAmazonをみるのがいけない。これもポチポチと欲しい本がピンポイントで手に入る。Amazonを見るのはやめたほうがいいのかもしれないが、もう癖になっている。本中毒になっている。一応読むが、鬱でヘロヘロであまり読めない。読むペースと買うペースが完全に釣り合っていない。
それで今日も本屋に行ってきて、本を買ってきた。村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』とホリエモンの『多動力』を買ってきた。
村上春樹の本は久々に買った。僕は10代後半から20代前半にかけて村上春樹にハマっていた。もうかなり読んだ。この本も当時読んだかもしれないが記憶にない。ではなぜ今、村上春樹なのかというと、村上春樹は禁煙して、規則正しい生活を心がけている。毎日走っているらしい。これが何か参考になるかと思い買った。鬱を治していくためには規則正しい生活が欠かせないらしい。僕の場合はあと、タバコをやめることと運動だ。だから村上春樹は何か知恵を貸してくれるかもしれない。また鼓舞してくれるかもしれない。そう思って買った。
ホリエモンの『多動力』はどうやら結構売れたらしい。だから文庫本になっているのだろう。ただ、以前えらいてんちょうがこの本を否定的に書いていたので、気になって買った。まだこの本を読んでいないので、内容は分からないが、この『多動力』という題は、ADHDの「多動」にもかけられているのだと思う。昨今ADHDが人気だ。ADHDといえば「多動」だ。この本が売れたのは、ADHD人気と関連あるのだと思っている。また、この本の裏に、
と書かれている。僕はビジネス本が嫌いだ。だからこの本も避けていた。ただ上記の理由から買った。また、この文章を読んで、「あれ?坂口恭平の『躁鬱大学』に近くない?」と思った。この本はもしかすると『躁鬱大学』のビジネス版なのかもしれない。もちろん読んでいないので内容は分からない。
坂口恭平の『躁鬱大学』は一見すると、躁鬱病に向けて書かれているように思う。しかし、実際読むと、誰にでも当てはまるようなことが書いてあると思っている。副題に『気分の波で悩んでいるのは、あなただけではありません』とある。僕はこの副題が重要だと思っている。ちなみにこの本は文庫化している。文庫化しているということは売れたということだ。売れたということは多くの人が手に取ったということだ。例えば加藤忠史先生の双極性障害の本はそんなに売れないだろう。せいぜい精神科で「双極性障害」と診断された人しか手に取らないだろう。そもそも「気分の波」なんて誰にでもある。だからこの本を読んで、「あれ?僕(なり私なり)のことが書いてある!躁鬱人かもしれない!」というのは当然の話なのだ。こういうのをバーナム効果というらしい。とはいえ、この本は面白かった。というか読んでいて気が楽になったから好きだ。
現代は、相田みつをの詩や少し前に流行った『置かれた場所で咲きなさい』みたいなのは流行らないと思う。どちらかというと、ホリエモンの『多動力』みたいなのや坂口恭平の『躁鬱大学』みたいなのが受けがいいと思う。ただ、えらいてんちょうは『多動力』的なものを否定的に見ていた。「それは子供」だと。要は成熟がない。えらいてんちょうはこの「成熟」を内田樹から引き継いだ。実際に対談もされている。
まあ今は「置かれた場所で咲く」よりも「咲ける場所に身を置く」時代なんだろな。