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’お客様’へのおもてなし精神極まれり『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス) -Beginning-』感想・批評(閃光のハサウェイにも触れています)
はじめに
先日、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス) -Beginning-』を観て、色々と考えさせられることがあったので批評したいと思う。
まず初めにに点数と軽い感想を示しておくと、
点数は、50点。
前回の批評。『モノノ怪 唐傘』は75点でした。
つまり、あまり面白くなかった。そう捉えて頂いて構いません。
というか面白い・面白くないという作品の質よりもこのような作品がSNSを中心に考察厨やエヴァンゲリオンオタク、ガンダムオタクを巻き込み、
一大ムーブメント化している様を見て、「この国のエンターテインメント作品。特にアニメーション。大丈夫か?」と不安を通り越して失笑しました。
では、これからその理由を語りたいと思いますが、以後の文章は、現在進行形でわっしょいわっしょいやってるヱヴァオタクやガンダムオタク或いは庵野秀明信者達には耳の痛い内容になると思いますので自分の好きな作品をこき下ろされて傷つきたくない方は、ブラウザバックを推奨します。
忠告しましたので、ガンガン語っていきましょう。
現実に負けた虚構
上記の記事は、批評家 宇野常寛氏による『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の中身の批評というよりは、受容のされかたについて論じられた文章になりますが、本作、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス) -Beginning-』にも通じる点が多いと思いますので、少し引用させて頂こうと思います。
私たちは、虚構の中の他人の物語に感情移入するよりも、現実の中での自らの言動に承認を与えられる快楽の側に、その関心を移しはじめている。作品を株券のように扱い、「みんな」が支持しているものを自分も支持することで一体感を味わうゲームに、作品を鑑賞することそのものよりも大きな快楽を感じている。あるいは、表現されたものの政治的に正しくない側面を指摘し、タイムラインでその意識の高さを誇る行為のもたらす充実感に酔いしれている。作品を鑑賞する行為(受信)がそれを用いて承認を獲得する行為(発信)に圧倒されつつある。
氏の指摘は仰る通りで、現在進行形で本作の考察記事や感想記事がこのプラットフォーム「note」を含めたインターネット上に日々、量産されているわけですが、批評を書くにあたり私も少し中を覗いてみたところやれシャアがどうだのやれニュータイプがどうだの物語の内側の設定ばかり考察して純粋な虚構の物語としての質はどうだったのかの話が一切ないようで「制作者側の狙い通りに釣られているのにそれに気づかずお気楽な人達だなぁ」と。思いました。
具体的に言いますと、
まず、ガンダムの皮でエヴァンゲリオンを作る。
これだけで、ガンダムオタクやエヴァンゲリオンオタク或いは庵野信者は釣れる。
次に、謎や伏線を強調する物語にすることで考察厨への餌を提供し、考察記事や考察動画を作って拡散してもらうことで実質、タダの宣伝を勝手にやってくれる。且つ、考察厨達も釣れる。
また、IFストーリーを前半に挟むことで庵野秀明も老後の楽しみとして、ガンダムを作ってハッピー。機動戦士ガンダムの第一話をオマージュ的に描き、「あなた達の好きなガンダムお借りします。すいませんね。」とご丁寧に挨拶回りをして、古のガンダムオタク達にも配慮する。そして釣れる。
最後に、SNS上にネタバレ感想有りの場所を設置することで、結束が強まり、それを羨ましく思う、まだ本作を観ていない人も釣れる。
なんと、’お客様’へのおもてなしが行き届いた素晴らしい作品なのでしょう。
8888(パチパチパチパチ)。
は?
これら全部、氏が仰っている。
人間はそれがどれほど希少でも他人の物語を観るより、それがどれほど凡庸でも自分の物語を語るほうが好きな生き物だ。そして情報技術は誰でも簡単に自分の物語を語ることを可能にした。人類は「自分の物語」を語り、発信する快楽を覚えてしまった。もはや、後戻りはできない。そしてこの「他人の物語」から「自分の物語」への移行は虚構の現実に対する相対的な敗北を意味している。私たちは、虚構の中の他人の物語に感情移入するよりも、現実の中での自らの言動に承認を与えられる快楽の側に、その関心を移しはじめている。作品を株券のように扱い、「みんな」が支持しているものを自分も支持することで一体感を味わうゲームに、作品を鑑賞することそのものよりも大きな快楽を感じている。あるいは、表現されたものの政治的に正しくない側面を指摘し、タイムラインでその意識の高さを誇る行為のもたらす充実感に酔いしれている。作品を鑑賞する行為(受信)がそれを用いて承認を獲得する行為(発信)に圧倒されつつある。
この問題そのものですよね?
どこに虚構への言及があるんだ?
シャアだのニュータイプだの他のガンダムシリーズにも頻繁に登場する分かりやすい記号を取り出して、深読みするという考察の裏には「承認欲求を満たしたい」という欲望或いは、考察記事や考察動画を欲する観客と自身が「同じ価値観を持っていることを確かめたい」という欲望が見え隠れしているように思う。
これらは、一見、虚構の物語に言及し、作品の質を評価しているように見えて、実のところ作品を利用して、個人的な欲望を満たしているに過ぎない。
本作に限った話ではないが、近年のエンターテインメント作品におけるSNSを利用したソーシャル(世間的)な評価で作品そのものの質を埋め合わせようとする傾向は、目に余る。
勿論、そのことについて一切、疑問を感じないどころかいいように乗せられて宣伝要員になっている観客の態度も問題だが、劇場公開後直ちにSNSを操作してソーシャルな評価を形作りそれを宣伝することで興行的失敗のリスクマネジメントをする製作者側の態度ももう一度、見直されるべきだと思う。
考察厨も考察を有難がる観客達も作品自体の質の話を議論するべきである。
内容について
前項で氏が、「純粋に虚構の物語を楽しむ」という映画体験がSNSによって底上げされたソーシャルな評価によって蔑ろにされている問題視していることについて言及したが、著作『2020年代の想像力』の中では、SNSを利用した付加価値化戦略によって偽装されている『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の内容的空疎さについても同時に論じていた。
私もそれに倣いSNS上の盛り上がりによって偽装された本作『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス) -Beginning-』の内容的空疎さについて論じようと思う。
キャラクターデザインについては、「ポップにすることでガンダム初心者にも口当たりの良いデザインにしよう」という意図があると思いますので文句はないです。
音楽もVtuberの方を挿入歌に起用したことで一部の界隈で問題視されていたようですが、特に気にはならなかったです。
問題は、(物語の構造を含む)脚本とキャラクター造形です。
まず、物語の構造。
機動戦士ガンダムUCでは宇宙世紀という設定の拡張を物語の中核においたように本作ではニュータイプという設定を拡張する物語になっています。
ここで少し頭が回る人ならば、機動戦士ガンダムシリーズの宇宙世紀という設定をガンダムUCでは「ラプラスの箱」という形でブラックボックス化したのだがそれは只の設定のための設定であり、それがある種、陰謀論的に扱われることで、「それさえ解決すれば救われる」みたいな安易な目的を持つ主人公バナージのキャラクター造形や話の肝であるはずの「ラプラスの箱」の回収の仕方がガンダムの歴史に依存したままの縮小再生産的な物語の象徴となってしまい、ガンダムを乗り越える或いは破壊するような野心的作品にはならなかったことを思い出すはずです。
それを踏まえると本作もニュータイプという設定をブラックボックス化して、「よくわかんないけど…なんか分かった!」という主人公マチュのセリフにあるようにニュータイプという設定をパッションやシンパシーのように回収している様を観てガンダムUCのようになり得る可能性を感じ、一抹の不安が募っていますが同じ轍を踏むかどうかを現時点では判断しかねるので問題提起程度にしておきたいと思います。
つぎに、脚本とキャラクター造形。
キャラクターデザインや音楽の志向そして、「カラーとサンライズの夢が交わる」というキャッチコピーから、「ガンダムをヱヴァ色に染めて、これからは俺たちがガンダムを引っ張っていくんだ!!」というコンセプトとしての野心は見て取れるが、中身は、物語として新鮮味がないし、基本的なカタルシスの作り方も正直、お粗末である。
具体的に言うと、主人公マチュをつまらない現実に飽き飽きし、面白いものを求めている若者というキャラクター造形にするのは良いが、「やっちゃいけないことをやろうとしている」というような葛藤のシーンが薄すぎて、ザクとの戦闘やクランバトルで勝利を掴む際のカタルシスがすごく弱い。
「まあ、編集版だから。」という言い訳もあるだろうが、無駄に長いアクションシーンをうまく整理すれば、主人公マチュの人物描写をもっと丁寧に描く尺は捻出できたはずだ。
また、マチュと対比して描かれるべきニャアンというキャラクターも印象が薄く、マチュとシュウジの関係性をどう捉えているのか、それともシンパシー的な繋がりを否定するのか、或いは、マチュに憧れを抱いているが故の嫌悪感を持っているのかのようなキャラ付けを序盤で強調しておかないと、ニャアンがマチュやシュウジと交流することによって、変化する気持ちをうまく描けなくなってしまう。
このような脚本やキャラクター造形の粗(アクションシーンさえ良ければ頭の弱い観客は満足するだろうと踏んで敢えてそうしたのかもしれないが)も米津玄師のポップな曲とCGを用いた躍動感のあるアクションシーンのおかげでカバーし、ギリギリ観れるものに成立させているのはお見事なのかもしれないが、「もう少しどうにかならなかったのか」とも思う。
また、論点はそこだけではなく、主にキャラクター造形にみられる「社会情勢について鈍感すぎる」点も問題だ。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の批評で宇野常寛氏は、中盤の農本主義的なシーンに「そんなもので悩みが解消されるなら苦労しないわ!」と苦言を呈していたが、本作でも『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』と同じような社会情勢の変化やそれに伴う人間の行動原理の変容についての無関心さが見られる。
ニュータイプをパッションやシンパシーのように回収するのは良いが、このポストトゥルースの時代に「感情の赴くままに面白いを追求すれば良いんだ」なんていう行動原理を持つキャラクターを主人公に据えるのはかなり危険だと思う。
なぜなら、日本では石丸現象や兵庫県知事選。アメリカなら大統領選挙にトランプ再選という政治的なトピックに象徴されるように吟味された正しさよりも短期的な享楽へ人間の意識が傾いた結果、陰謀論の誕生やポピュリズムの台頭を生み出したのは火を見るよりも明らかである。
パッションやシンパシー自体を否定するつもりはないが、SNSが民主主義にまで影響を及ぼす時代に虚構と現実にしっかりと線を引いて、虚実それぞれに適した思考へ切り替えられる人がどれだけいるだろうか?
正直、「怪しい人がかなりいるのでは?」と思う。
では、なぜ、そこまで私が一般観客層における虚構と現実の区別について懐疑的なのかというと、こういう例があるからだ。
2019年公開のトッド・フィリップ監督作品「JOKER」は、「虚実の境目が段々と曖昧になって、遂に虚構のような現実が到来してしまったのが今日のアメリカ社会なのだ」というアメリカ社会への強烈な批判性をもったテーマだった。
それ故にアカデミー賞候補に名を連ねるほど良作として評価されたわけだが、その作品の日本での評価は、「社会的弱者が強者を倒す下剋上がカッコ良くてスカッとした!」のような解釈が大半で、それを象徴するように起きた京王線での例の事件も我々の記憶に新しいはずだ。
このような日本の観客の映画リテラシーの低さを考慮すると、私は本作に対して何の疑問も持たないまま無批判に受容し、持て囃されている現状には不安しかないし、そのような観客を慰撫するようなキャラクター造形を設計する作り手にも現代社会への鈍感さを感じる。
そして、これが最も問題だと思うのが、「ガンダムは、戦争をリアルに描いているから良い。逆にリアルに描いていないガンダム作品はダメ」というようなタブロイド思考(判断が難しいような事象をステレオタイプな枠で捉える思考)的に本作やその他のガンダムシリーズ全般を評価するガンダムオタクが多い点である。
確かに、1stと呼ばれる『機動戦士ガンダム』は、ガンダム以前の地球を守る地球人対地球を侵略する異星人のような完全懲悪ものばかりだったロボットアニメに敵方味方方のような二項対立をキャンセルするリアルな戦争描写とそれに連なる人間ドラマを持ち込んだことが子供だけでなく大人をも引き付ける魅力に繋がったことは間違いない。
しかし、ウクライナ戦争や2023年パレスチナ・イスラエル戦争が日々、ニュースで取り上げられるようになり、戦争との距離が一気に近くなった今日において「戦争をリアルに描くこと」のみが主題になり得ないことは、理の当然である。
ならば、「今日のロボットアニメにおいて何を主題にするべきなのか?」
それは、「戦争をどうリアルに描くのかではなく、なぜ戦争が起こってしまうのか?」についての前提を問うことを主題にするべきだと私は考える。
そして、これまた面白いものでその主題を巧みに描いていると私が評価しているのが同じガンダムシリーズの一作である2021年公開 村瀬修功監督作品『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』である。
理由を説明しよう。
同作においてもリアルな戦争描写は、他のガンダム作品同様に描かれているもののハサウェイとタクシー運転手との会話の中でマフティーのテロについて「暇なんだね。その人さ。」と言われ、マフティーの活動が市井の人々からどのように認識され、自分とどれだけ問題意識がズレているのかを目の当たりにして面食らうシーンやテロ実行直前のホテルでベッドに横たわるシーン、怖がるギギを抱きかかえながら目前で戦闘を体験するシーン等の映像言語を用いた演出で示唆されているハサウェイの「葛藤」を鑑みれば、それが主題ではなく敢えてリアルな戦争描写を強調して描くことで『自分の問題意識は正しいのか?他者の視点に立って考えられているのか?本当にテロという手段が弱者を救うことに繋がるのか?むしろマフティーのテロによって弱者を救うどころか新たな戦争の火種を生み出してしまっているのではないか?』という「なぜ、戦争が起きるのか?」についての前提を問うという主題を描くためのツールとして利用されていることは明白だ。
にもかかわらず、これは少数意見であると信じたいが、某映画情報サイトによせられた同作へのレビューの中に「戦闘シーンが暗すぎて分かりにくかった」なるレビューを見かけて「それは敢えてそうすることで暗闇の中で何が起こっているのか分からないというハサウェイ達が体験している戦争の恐怖感を画面の暗さ+映画館の暗さを利用して疑似体験的に演出しているんだ! そしてその演出も主題を引き立たせるためのツールであることは、物語全体に通底された演出を鑑みれば見抜けるだろ!」と憤りを感じたのだが、このように一般のガンダムオタク達はツールとして描かれているだけのリアルな戦争描写や戦闘シーンにしか関心がなく、それらは、主題を描くためのツールでしかないという物語へのメタ視点・メタ認知が全くない。
「こんなクソ社会から現実逃避したい」という欲望を虚構に求める気持ちは分かるが、何を信用したらいいのか分からない時代だからこそ自身の意識を他人の物語(虚構)に没入させ、感情移入することでまるで自分の物語のように体験する高畑勲が言うところの「没入型」の映画視聴体験に一度見切りをつけ、他人の物語(虚構)を第三者目線で観ている自分という意識づけが必要だ。
しかし、本作、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス) -Beginning-』へのレビューや感想記事を覗いてみても「戦闘シーンが良かった」等の感想が散見されることを考慮すると日本のアニメファン・アニメオタク・ガンダムオタク達の鑑賞力の低さには呆れてものも言えない。
ただ、本作のような作品がウケる理由も分かる。
それは、我々がつまらない現実から逃れられないと自覚しているからだ。
ヒットの法則=快感原則
これは、上記の記事内でも語ったことだが人間の善性を信じられない現代だからこそ、虚構の中だけでも安心・安全を得たいという欲望を見事に解消した『葬送のフリーレン』が人々の快感原則に沿ってヒットしたように、つまらない現実から逃れられないことを半ば自覚している大人達だからこそマチュのような自由を求めるキャラクターが活躍する物語に興奮する。
だから、そのような快感原則に沿うような作品づくりがヒットの法則であり、興行的には成功なのだ。
この欲望まみれの真実は、作品を売り込む側にとっては自明だろう。
しかし、それは、’商品’であって’作品’ではない。
映像作品に限った話ではないが、「お金になるものは’正義’それ以外は価値なし」みたいな言説が当たり前のようにエンターテインメント業界で共有されている現状も問題大ありである。
だからこそ、一定程度の資金回収が見込める巨大IP『ガンダム』ならば、そのような問題を吹っ飛ばすほどの野心的な作品が期待できると踏んだが、野心的だったのはエヴァンゲリオンとガンダムの融合という現実に即したキャッチコピーだけで、肝心の虚構の物語は現実の快感原則に沿っただけの凡庸なものだったと思う。
’お客様’おもてなし作品を作る弊害
少し話が逸れるが重要な事なのでアメリカのオンライン決済システムPayPalの創業者ピーター・ティールの言葉を紹介する。
’競争’は、’敗者’のもの。
この言葉が意味するところは、仮にテクノロジーが発展しても大衆の需要に沿う形で利用され、その需要の奪い合いをする’競争’が生まれると次のテクノロジーの発展そのものを阻害してしまう。
つまり、需要の奪い合い’競争’のせいでテクノロジーの発展による恩恵を受けられない我々は、全員’敗者’になる。
そう言っているのです。
あれ、これってアニメーション業界にも符合する話ではないでしょうか?
大衆の需要に沿うような’お客様’おもてなしの作品づくりをするとクソどうでもいい興行的な’競争’が生まれ、現実の快感原則に沿う似たような作品ばかりが氾濫し、(主に脚本や演出面に顕著だが)アニメーションの表現力・創作力そのものが低下してしまう。
今まさにこの状況だと思うのですが、本作を鑑賞した人はこの問題をどう受け止めているのでしょうか?
恐らく、頭に過りもしていないと思います。
だから私は、日本のアニメファン・アニメオタク本作に限ればガンダムオタク達って【(自分で自分の首を絞めていることにも気付かずに)ホントにお気楽で幸せな人達だなぁ】と思うし、同時に「この国のエンターテインメント作品。特にアニメーション。このままで大丈夫か?」とも思うわけです。
長文失礼しました。