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「たいせつなもの」を捨てないことが『鉄の檻』を無力化するカギとなる【『劇場版 モノノ怪 唐傘』批評】






はじめに


Netflixで先日、配信開始された劇場アニメーション作品『モノノ怪 唐傘』を見て、色々と考えさせられることがあったので批評したいと思う。

また、タイトルにある『鉄の檻』をテーマに批評したい作品が残り二つあるので三回に渡るシリーズ『鉄の檻』批評の第一回目が今回の記事になります。

では、最初に点数と軽い感想を示しておくと、

点数は75点

低い点数に聞こえるかもしれませんが、(一部の優秀な作品を除いて)
日々、粗製乱造されている中身のないTVアニメは、60点以下のものばかりなので、その点、本作は、かなり評価しています。

良いと感じたところは、テーマ設定とそれを想起させるために施された演出が冒頭から一貫して描かれていた点。

また、『モノノ怪 唐傘』を鑑賞するに当たって過去作のTVアニメシリーズ『モノノ怪』を観たが、TVアニメ尺の30分から劇場アニメ尺90分に増えたことを活かして前作で描かれていた個人の問題とモノノ怪の関係性というミクロな物語から個人の問題が社会の問題と繋がっていて、それがモノノ怪とどう複雑に関わっているのかというマクロな物語にスケールアップされて描かれているところに只のファンムービー(ファンを喜ばせるだけの映画)のような陳腐な続編作品ではないところも良かったです。

そして本作は、三部作の一作目ということで結論が描かれるというよりは、問題提起を主目的とした作品だったと思うので、点数自体は少し抑えられてしまうが、第二章『火鼠』以降を観て、本作の評価を考え直す可能性も大いにあるので、期待して続編を待ちたいと思う。

さて、序文はこのくらいにして具体的な批評に入りたいと思うが、まずは共有するべき前提『鉄の檻』について説明したいと思います。


『鉄の檻』


まず大見出しである『鉄の檻』について説明するための前提として社会学者マックス・ウェーバーが提唱した人間を支配する三つの形について説明する。

一つ目に 伝統的支配

血統・家系・古来からの伝習・しきたりなどに基づいて被支配者を服従させる正統性で、古くから存在する秩序と神聖性による支配。

二つ目に 合法的支配

秩序・制度・地位など合法性にもとづく正統性で、法をその基礎としているために、ほかの2つの正統性に比べて安定している。合法的正統性を他にもまして重視する国家は「法治国家」と称せられる。

三つ目に カリスマ的支配

支配者個人の超人間的・超自然的資質やそれに基づく啓示などの指導原理に被支配者が個人的に帰依するときに生ずる正統性で、宗教的指導者の権力などがこれにあたる。

この三つの支配の形の中でも、私たちが一番、身近に感じることができるのが、二つ目の合法的支配である。

なぜなら、日本は法治国家であり合法的支配によって国が運営されているからだ。

法を犯せば罰をくらうので法を遵守する。

それが当たり前のことで『常識』なんていう言葉に変えて私たちは、日々、生活しながらそれを確認し合って生きているわけだが、マックス・ウェーバーは、合法的支配の上で運営される官僚制(規模の大きな組織や集団において、合理的・合法的権威に基づいて組織を管理・支配するシステム)の弱点をこう記した。

官僚制においては、他の組織の形態と比して、業務の正確性と継続性や、曖昧性と恣意性を排除するなどの側面が認められうる。しかし他方、官僚制は形式合理性の論理にしたがって組織を閉鎖化し、単一支配的な傾向を生み出す。

wikipedia「支配の社会学」より


要は、合法的支配のもとで形式合理性(人間性のような計算不可能な可能性を排除し、法のような計算可能なものだけに価値を見出す)を追求していくと法を守ってさえいれば全て正しいのであって、それを守らないということは如何なる場合においても間違いであるという極端な考え方がまるで正義であるかのように強まってしまう。

そのような極端な考え方に支配されている社会のこと

マックス・ウェーバーは、

法という名の硬い檻に個人が閉ざされている・支配されている状態

『鉄の檻』と比喩した。

ここで、勘違いしてはいけないのが、マックス・ウェーバーが考えるとは、憲法や法律のことだけではなく所属する共同体(地域社会・学校・会社・SNS)のルール或いは社内規則・校則・マナー・エチケット等も含めるということだ。

では、この『鉄の檻』『モノノ怪 唐傘』の中でどう表現されたのかについて話していこう。


「同調圧力」とその弊害である「合成の誤謬」




上記は、本作『モノノ怪 唐傘』の監督を務められた中村健治氏へのインタビュー記事だが、記事内で本作はコロナ渦における「同調圧力」「合成の誤謬」をテーマに扱ったと中村監督は仰っていた。

言わずもがな、日本人固有の国民性である「同調圧力」(同じであることを強要する)は、時として正義という大義名分のもと暴走することがある。

皆さんも記憶に新しいコロナ渦におけるマスク警察はその際たる例だろう。

しかし、マスクさえすれば(法さえ守れば)コロナウイルス感染の予防になるのか(正しいことになるのか)。

そんなことはない。コロナウイルスに罹る人はどれだけ予防しても罹るし、罹らない人はずっと罹らない。

であれば、罹っても重症化しないようにワクチンを受けるのか、また、罹った後、どう対処すればよいのかについて議論するべきはずなのに、いつからかコロナウイルスを予防するためのはずだったマスク着用がマスクをするという法・ルールを守っているか否かその同調圧力に従っているか否かに議論の力点がズレて、「お前、マスクしてないな!非国民!」のような言葉が溢れ、正義が暴走する。SNSが炎上する。

このような状態を「合成の誤謬」(何かの問題解決にあたり一人一人が正しいとされる行動をしても、全員が同じ行動をとると、想定とは逆に思わぬ悪い結果を招いてしまうこと)と呼ぶ。

このように合法的支配の弱点である『鉄の檻』状態だったのがコロナ渦の日本だったわけだが、それを受けて本作、『モノノ怪 唐傘』は「同調圧力」によって形成される「合成の誤謬」というクリティカル(批判的)で現代的なテーマを大奥という「鉄の檻」を舞台に設定することで表現していると解釈することができるだろう。

さて、テーマの話はここまでにして、具体的な批評に移りたいと思います。


(補足)「のっぺらぼう」


私が本作を批評するにあたりキーワードとして定めたのが、先ほどまでの話で説明した『鉄の檻』。そして、これから語る『大切なもの』です。

後の批評の補足として、おそらく本作に関連する話であるTVシリーズ『モノノ怪』第6・7話の「のっぺらぼう」について触れたいと思う。

あらすじ

「のっぺらぼう」

とある藩士の家に嫁いだ・お蝶は、夫やその親族を皆殺しにした罪で、奉行に裁かれ死罪を申し付けられる。その牢屋に同じく罪人として捕まっていた薬売りが現れる。薬売りは、これはアヤカシの仕業であり、あなたが本当に家族を殺したのかと問うが、そこに奉行を名乗る仮面の男が現れ、薬売りを退ける。仮面の男は、自分はアヤカシだが、お蝶に惚れたため祝言を挙げようという。お蝶は仮面の男との祝言に幸せを感じるが、再度、薬売りが現れ、真と理を見つけてモノノ怪(のっぺらぼう)を斬るために彼女の人生を追体験する必要があると語る。

(ネタバレ注意)

母の期待に応えようとするあまり、幼子の頃よりずっと心を押し殺して生きてきたお蝶の自我は、主体性を失うことで本当の自分(親の言うことを聞かない自由な自分)と偽物の自分(親の言う通りに行動する縛られた自分)の二つに分かれてしまった。そこに現世にはいないアヤカシが、本当の自分の方に憑りつきモノノ怪であるのっぺらぼう(仮面の男)が生まれる。のっぺらぼうはお蝶に好意を示し、救い出してくれるとお蝶に告げるのだが、のっぺらぼうは仮面をつけたままで本当の顔をお蝶には見せない。それもそのはず、のっぺらぼうは分かれたもう一つの自我=自分の半身なのだから。その理をお蝶に気付かせた薬売りがのっぺらぼうを退魔の剣で祓うことで、物語は閉じる。

『モノノ怪』の特徴として、薬売りというキャラクターは、あくまでモノノ怪を祓うことが目的であり、形・真・理さえ分かれば、それ以上のことには首を突っ込まない。それがこの回では冒頭のお蝶の夫や親族が誰に殺されたのかが劇中で明かされないことで表現されている。

では、なぜ、その謎を残したまま物語は閉じてしまうのか?

それは、描きたいことがモノノ怪を祓うことと同時に果たされているからだ。

つまり、「のっぺらぼう」の回で描きたかったのは自分の心を押し殺して母親の期待に応える・言いつけを守るという『鉄の檻』に従い続ける・支配され続けると主体性を失ってしまい、体が人間なだけの非人間的な人間(人間の姿をしているだけでお面の下には顔のないのっぺらぼう)になってしまう。

このような問題を提起することが「のっぺらぼう」の回で描きたかったテーマである。

では、その問題提起が本作『モノノ怪 唐傘』でどう活かされ、回収されているのかについて語りたいと思う。


「鉄の檻」に足を踏み入れることで失われる「たいせつなもの」とは何か?


主体性


いきなり冒頭で後の伏線となる重要なシーンが二つあるので注意深く見てもらいたい。

一つは、アサがカメからおにぎりをもらうシーン。

もう一つは、アサとカメが手を繋いで大奥へと共に足を踏み入れるシーン。

この伏線はラストシーンを理解するための鍵となるが、それは後で語るとして、「のっぺらぼう」の回で描かれた主体性を失うというモチーフを本作では、アサとカメが持参した「たいせつなもの」を井戸に捨てるという大奥に入るための加入儀礼と大奥独自の習慣としてその井戸から汲み上げられた水を大奥で働くもの全員が大奥で働く覚悟と戒めのために一様に飲むことで表現している。

そう。

大奥という『鉄の檻』で働くには、主体性を殺し、周りと同調する必要がある。

では、このシーンで示唆される

「鉄の檻」に足を踏み入れることで失われる「たいせつなもの」とは何か?

それは、主体性である。

しかし、まだ大奥に入ったばかりのアサとカメが主体性を捨てきれていないことを、飲んだ水を「生臭い」と感じているシーンで表現しているように見えるのだが、実はその水がモノノ怪 唐傘に絡んでいるというのも重要な伏線として描かれる。


仲間意識


通過儀礼の際に祖母に持たせてもらったおにぎりを井戸に捨てられた上に大事にしていた串を自ら捨てたカメと歌山が現れたことで大切なものを捨てずに済むアサと対比するように描かれているがこれも後の伏線となっている。

「たいせつなもの」を捨てずに済んだアサを疎ましく思った先輩女中である麦谷や淡島は冷ややかな目線を向ける。

このシーンで示唆される

「鉄の檻」に足を踏み入れることで失われる「たいせつなもの」とは何か?

それは、仲間意識である。

無論、「私はたいせつなものを捨てたのにあいつが捨ててないのは不公平だ!」という個人的な不満もあるだろうが、主体性を失った女中たちの間には大奥という「鉄の檻」による間接的な繋がりしかないため人と人との直接的な繋がりによって生まれる(冒頭で描かれるアサとカメの関係性のような)仲間意識が共有されず、大奥という共同体はそこに人が属しているだけで中身は空っぽである。

だから、損得勘定に囚われ、自分の地位を上げるために平気で他人を蹴落とそうとするし、気に食わないことがあったら直属の部下をストレスのはけ口にする。

全ては、仲間意識がなくなり、同僚を人間扱いできなくなってしまうことに起因する。


意志


次に描かれる「鉄の檻」に足を踏み入れることで失われる「たいせつなもの」は、唯一、主体性仲間意識を失っていないアサ側から逆説的に描かれる。

先輩女中から頼まれていた仕事を時間内にこなすことが出来なかったカメに対して麦谷が激しく叱責するシーン。

そこでアサは、「同室である私の確認不足です」とカメのために頭を下げ、麦谷や淡島に謝る。

このシーンだけを切り取ってみると自分の地位や品格を高めるために謝っている(利己的な利他的行動)ようにも見えるが、大奥=「鉄の檻」に居ながら主体性と仲間意識を失っていないアサはそうではない。

たとえ自分が損をしてでもカメを守るという純粋な利他的な利他的行動である。

では、このシーンで逆説的に示唆される

「鉄の檻」に足を踏み入れることで失われる「たいせつなもの」とは何か?

それは、意志である。

「助けたら上司に嫌われ、私が損するのではないか」「周りから変な目で見られるのではないか」という「同調圧力」に屈することなく、「仲間を守りたい」という意志によってアサの体は動く。

アサは、仲間を守るためなら法に従わないし、損得勘定で人を助けることもないし、周りに合わせて「嫌」だと感じたことを我慢することはない。

このアサのキャラクター造形は、大奥という「鉄の檻」に対するアンチテーゼだろう。


本作における「水」と「渇き」の意味


 本作の中で頻繁に登場する「水」のモチーフ。

冒頭のシーンでは、通過儀礼として飲む井戸の水、次に雨、天子様と御中臈が飲む酒、カメが麦谷から罰として掛けられる水、そして、唐傘が女中を襲うシーンの動きも襖や天井を浸食する水のように描かれる。

また、歌山のシミのある手も「渇き」のモチーフとして頻繁に描かれる。

これらには監督が伝えたい演出的な意図があると考えるのが妥当。

そこで、物語のキーパーソンであり、生臭い井戸の水に関わっている女中 北川について語りたいと思う。

これは終盤になって語られることだが、北川はアサと同じような状況で大奥に来たが、目指している役職に就くために共に大奥に来た仲間だったはずの同僚に引導を渡し、辞めさせたことで取り立てられ目標だった役職に就くことができたがその代わりに自分のたいせつなものを失ってしまったことに気付き自責の念に襲われる。

その感情は、アサに北川が問いかけるシーンでの「捨てていけないものがある。それは形があるものとは限らない。それを捨てると渇いてしまう。」というセリフで示唆されている。

このセリフの意味が分かれば、なぜ、北川が井戸に身を投げ、モノノ怪 唐傘として顕現したのかの理由も「水」と「渇き」の意味の分かるようになる。

つまり、北川は、数多のたいせつなものが捨ててあるはずの井戸の水を飲み続けている大奥の者達へ井戸に身を投げることで身をもって忠告したかったのだ。

あなたたちはたいせつなものを井戸に捨ててしまって渇いているミイラ(非人間的な人間)のはずなのにその井戸から汲み上げられた生臭い水を疑うことなく飲み続け、一時的に渇きを誤魔化すことで人間でありながら非人間的な状態にある。

だから、もう一度、たいせつなものを取り戻す(綺麗な水を飲む)ことで
渇きを癒し、ミイラ(非人間的な人間)から人間に戻るべきだ。

と。

しかし、そんな忠告も聞き届けられず、井戸で死体となっている北川は放置されたまま、隠ぺいされ、生臭いはずの水も「同調圧力」によって誰も「おかしい」という声を上げないまま飲み続け、何事もなく大餅曳きは行われようとしている。

この大奥の状態に業を煮やした北川の情念がアヤカシと混ざり、モノノ怪 唐傘となって顕現することで、初めて大奥の問題が表面化する。

ただ、終盤でアサが歌山に対して「北川様は誰も恨んではおられないはずです」という台詞で示された通り情念というのは恨みではなく、井戸の水を飲んでおかしいと思うならば、たいせつなものを失っていることに気づいて欲しいという北川からの忠告・警鐘の情念である。

だから、見境なく襲うのではく、たいせつなものを失っていないアサから水を吸い取ってミイラにはできないし、最終盤で井戸の水を飲むことを拒否した後のカメもミイラにはできない。

なぜなら、人間だから。

この唐傘の行動原理から人間である存在をミイラにはできないということは、唐傘は生きている人間から水を吸い取ってミイラにしているのではなく、とっくに渇いているはずなのに井戸の水で辛うじて生き永らえているミイラ達(歌山・麦谷・淡島)から「水」=「たいせつなもの」を返してもらっているだけと解釈することができる。

つまり

「水」=「たいせつなもの」=主体性・仲間意識・意志

「渇き」=「たいせつなもの」がない=主体性・仲間意識・意志がない

また

「水」で潤っている状態=人間

「水」のない渇いた状態=非人間的な人間(ミイラ)

作中ではこのように定義されていると私は解釈する。


なぜ、「渇く」と人間ではなくなるのか?


前項で「たいせつなもの」を捨て、「渇く」ことで人間から非人間的な人間(ミイラ)になってしまうと書いたが、この思想は、社会哲学者ユルゲン・ハーバマスもマックス・ウェーバーが定義した「鉄の檻」を現代ではこのように解釈できると説いている。

ハーバマスは、現代社会では科学技術が個人の思想とは関係なく客観的に体系化されており、目的合理性において科学技術の体系は絶対的な根拠を持っているとした。ゆえにあらゆる政治行為の価値はまず目的合理性において科学的あるいは技術的に正当なものであるかどうかの判断抜きには成立せず、イデオロギーが何らかの制度を社会に確立するときに目的合理性に合致しているかどうかということは大きな影響を持つとされた。ときにはこのような目的合理性がそれ自体で支配的な観念となり、人間疎外をもたらすと指摘した。すなわちこのような目的合理性が支配的な社会では、文化的な人間性は否定され、人間行動は目的合理性に適合的なように物象化されていくと警告したのである。

wikipediaより

注目すべきは、目的合理性が支配的な社会では、文化的な人間性は否定され、人間行動は目的合理性に適合的なように物象化されていくと警告したのである。の部分。

本作『モノノ怪 唐傘』に照らし合わせて解釈してみると

目的合理性が支配的な社会(大奥)では、文化的な人間性【主体性・仲間意識・意志等の「たいせつなもの」】が否定され、人間行動は目的合理性に適合的なように物象化されていく(大奥の中での地位向上のために使えない部下は、自分の評価を下げる原因に成り得るから切り捨てる)人間疎外(人間らしさがなくなった機械のような存在になる)をもたらす。

この人間疎外のことを本作では、非人間的な人間=「渇く」という言葉で表現しているのではないだろうか。

また、ハーバマスは、「鉄の檻」への処方箋として「生活世界」という概念も提唱している。

「生活世界」とは、言語や記号を媒介手段として用い、解釈する余地のある知識をその論理的支柱とした、相互に主観的な関係に基づいた社会の形のことをいう。

「生活世界とシステム」

つまり、

「生活世界」=直接的な人と人との繋がりを主とする相互扶助関係の構築


では、それが本作でどのように描かれているのかについてラストシーンを例に考えてみよう。



ラストシーンで示される『鉄の檻』への処方箋


薬売りによって唐傘が祓われた後、アサは、大奥に入る目的であったお役目を北川の部屋にあった人形を抱え、その人形=北川に自分の雄姿を見せるように全うする。

このシーンは、「たいせつなもの」=北川の人形を媒介にした「生活世界」でアサと北川が繋がっていることを示唆している。

また、カメは大奥を離れる決心し、大奥から出ていくのだがその顔に悲壮感はなく、むしろ顔を上げて笑っている。

これも「たいせつなもの」を媒介にした「生活世界」でアサとカメが繋がっているからなのだが、それを示唆するシーンは終盤だけではなく冒頭のアサがカメからおにぎりをもらうシーンやアサとカメが手を繋いで大奥へと共に足を踏み入れるシーン。唐傘に襲われた後、恐怖に怯えるカメが布団から手を出してアサに握ってもらうシーン等、冒頭から一貫して描かれていた。

そしてそれは、カメが大奥を離れた後のシーンでも同じ演出意図でおそらく大奥に居続けることを決めたアサの帯に刺さっていたカメの「たいせつなもの」である串をアップすることでも描かれていた。

これらのシーンを解釈すると

たとえ、アサとカメに『鉄の檻』の内側と外側という居場所の違いが生まれてもアサと北川が生者と死者に分かれていても「たいせつのもの」を捨てない限り生活世界が消えることはないし、いつでも友情を確かめ合える。

つまり、

「たいせつなもの」を媒介とした「生活世界」は、言葉や時空間を超越して成立し得る。

これこそが、本作をもって体現された『鉄の檻』への処方箋ではないだろうか。


批評


さて、長い長い作品解説がようやっと終わったので批評に入ります。

まず、監督のインタビュー記事にもあった「同調圧力」とその弊害である「合成の誤謬」というテーマは、作品を鑑賞している際、すごく伝わってきたのでそれだけで映画として60点は付けられる出来だったと思う。

次にそのテーマを想起させるための演出も少し分かりやす過ぎる部分も否めないが、随所に散りばめられていたのは加点できるポイントだと思う。

また、和紙風のテクスチャと大奥のカラフルな色彩と3Dレイアウトを使った躍動感のあるアクションシーンも映像作品としての見ごたえが十分担保されているのでこれも加点できるポイント。

では、批評なので欠点も書きたいと思う。

まず、これは私の個人的な好みかもしれないが、熟考した後にやっとテーマや作者の思想が掴める作品。端的に難しい作品が好みなのでそういう点では、キャラクターの言動や行動から何をテーマに演出しているのかが伝わりすぎてしまって、人間を描くのではなくテーマを体現するためのキャラクターになってしまっていると感じた。

無論、本作は、TVシリーズから一貫しているアニメーションで寓話を作るということにフォーカスした弊害でそうなっているのだと推測するが、薬売りという個性的で絶対に変わることのない狂言回しがいることを活かして、コントラスト(対比)して見れるようにその他のキャラクター特に主役と準主役であるアサとカメにはもっと人間性を持たせる演出(例えば、台詞で説明するシーンを減らす、感情表現をもっと抑えて観客に読み解かせるような重層的なものにする等)を施しても面白かったのではないだろうか。

次に、大奥が舞台の設定なので女を描くことが中心になるのは分かるが、男性陣(三郎丸・平基・北斗・天子様)の存在感がかなり薄く、特に男子禁制の大奥に特別に入れているはずの三郎丸と平基が薬売りに完全に存在を喰われてしまっていて、結果的にいざという時に男性は全く使い物にならないことを表現しているとフェミニズムの人達に勘違いされかねないような扱いになっていることももう少しどうにかできなかったのかと感じた。


次作への期待



第一章 唐傘では、「鉄の檻」による「同調圧力」とその弊害である「合成の誤謬」というマクロなテーマで物語が構築されたが、先日公開された第二章 火鼠のあらすじでは御中臈 大友ボタンと時田フキとの間に軋轢が生まれて…とあったので、やはり、二章以降はマクロな物語から徐々にミクロな物語にシフトしていくのだと予想している。

であればこそ、これは批評にも書いたことだがキャラクターではなく人間としての深堀、人間性の重層的な表現をもっと期待したいと思う。

寓話と人間性の両立

私はその点を注視して、次回作を期待することにする。

最後までお読みいただきありがとうございました。

では、また。


(余談)本作への感想・考察記事について


本作『モノノ怪 唐傘』を批評するにあたり(このnoteに投稿されている記事も含め)ネット上に散らばっている感想文や考察記事を一通り目を通したのだが、疑問に思うというか「90分間お前はどこを見ていたんだ?」と思うような物語の上っ面だけをなぞったような文章ばかりだったので、落胆した。

こういうことを言うと「楽しみ方は人それぞれなんだから邪魔をするな!」とか「難しい知識や詳しい分析をひけらかして教養マウントを取るな!」と言われそうだがそれでも言いたいことがある。

まず、本作のように明確なテーマ(同調圧力、合成の誤謬)が設定されている作品において物語というのはテーマを語るための器でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。

無論、劇場で流される商業映画である以上、ある程度起承転結に則った物語である必要はあるが、感情移入を促し、快感を味わわせ、物語の中のキャラクターの一挙手一投足に耽溺させるような映画を鑑賞し慣れてしまうと物語のテーマ・思想を読み解くための俯瞰的・客観的に作品を鑑賞する機会が失われ、物語が自身の快感原則に沿っているのか否かだけに注目するようになってしまう。

難しい話かもしれないが、要は「感情移入できなかった」みたいな感想は、自分の好みに合っているかいないかというかなり主観的な映画の観方であって、作者の意図を無視しているのと同じだということ。

また、これはある映画批評家の言葉だが、

【映画というのは倫理的な問題で現実では行うことができない人体実験を虚構(フィクション)という偽の空間を借りて思考実験(仮想的な人体実験)を行っているという側面がある。故にある映画に対して「リアリティがない」「展開が急すぎる」「カタルシスがない」というような意見は、そもそも映画の定義を理解していない頭の弱い捉え方だと考える】

以上、二つの意見から映画を鑑賞ではなく消費することで生まれた主観的な感想を映画レビューサイトなり(このnoteも含める)SNSなりに書いて批評家気取りで投稿することが如何に浅ましくさもしい愚かな行為であるかが理解できたとはずだ。

次に、考察なる視聴体験についてだが、

考察自体が悪いとは思わない。

なぜなら、作中で描かれているものが何なのかについて考えることは映画を読むために必要な行為だからだ。

しかし、考察とはあくまで批評するための手段であって目的ではない。

考察を楽しむ人の記事を拝見すると作中で描かれているものに意味を見出すことに躍起になってしまい、物語のテーマや思想との整合性を考慮しない只の妄想になってしまっているように見える考察記事がほとんどだ。

それでは、考察すること自体が目的となってしまい、映画の本質(テーマ・思想)からどんどん離れてしまう。

言葉だけでは伝わりにくい部分があるかもしれないので具体例として下記の考察記事を引用してみる。


北川の後悔とアサが捨てたものとは?

大奥を成り立たせるためにそれぞれが捨てなければいけないものは、思い入れのある櫛や鞠、万華鏡など、人によってはっきりと物として描かれていますが、唯一、アサだけはそういった“物”が描かれません。

しかし、アサにも“捨てなければいけないもの”があることは、北川の2回目の来訪で言及されています。その捨てなければいけない物は形があるものとは限らず、それを捨てると乾いてしまう、と語られています。

ここで「限らない」のセリフだけをカメに口にさせている通り、アサが捨てなければいけない物とは、カメへの思いであり、カメという存在です。

【ネタバレ解説】『劇場版モノノ怪 唐傘』あの水は何故不味いのか?アサが捨てたものとは?徹底考察より


そもそもの問題として「~というキャラが~と劇中で言っていたから~の解釈ができる」というような作品の読み解きは、思考停止状態の解釈だと断言する。

少し、話が逸れるがその証左として

小野寺拓也・田野大輔 著作「検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?」の中で「ナチスも良いことをした」と言って歴史研究者にSNS上で噛みついて鬼の首を取ったかのように喜んでいる素人に対して説かれた「事実」・「解釈」・「意見」の三層で思考する重要性について触れてみる。

 歴史研究の蓄積を無視して、〈事実〉のレベルから〈意見〉の層へと飛躍してしまうと、「全体像」や文脈が見えないまま、個別の事象について誤った判断を下す結果となることが多いのである

「検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?」より


重要なのは、「事実」から「解釈」を抜かして「意見」に飛んでしまう
全体像や文脈を取りこぼしてしまうところだ。

件の考察記事も女中北川の「たいせつなものを捨てなければならない」とカメの声である「限らない」というセリフ=「事実」からアサは自身の「たいせつなもの」であるカメを捨てたという「意見」に飛んでいるわけだが、果たしてそうだろうか?

よくよく考えると作中で頻繁に登場する「たいせつなもの」というのがアサにとって何を指しているのかは、はっきりと名言されていないし、他のキャラクターもそれは同じ。

ではこの意図とは、何なのか?

それは、私達、作品の受け手に「たいせつなもの」は人それぞれ違うのだからそれが何を指しているのか当事者意識を持って考えてほしいという作者なりのメッセージだと私は解釈する。

故にただ一つの正解はないはずである。

それを件の記事は、アサの「たいせつなもの」=カメで、北川に促されたからそれを手放したという解釈をして、私のような解釈をする人の可能性を無視するどころか件の記事を読んだ人の解釈の可能性を阻害するはっきり言って有難迷惑な解釈をさも正解であるかのように語っている。

考察記事と称して妄想を垂れ流すのは勝手だが、映画情報サイトに記事を投稿する以上、それが本作のテーマとどう関わっているのかアサとカメ、北川というキャラクターがどう描かれているのかについてもっと「解釈」してから「意見」を言うべきだ。

つまり、考察のような「このシーンはこう描かれている」という「事実」を基にした「意見」よりも「事実」として描写されたシーンが「なぜ、このように描かれなければならなかったのか?」という「解釈」について思考を巡らせることの方が余程、重要であって「解釈」の浅い「意見」には、このようにいくらでもケチを付けられる。

これこそが考察の脆弱性だと思う。

なので、もっと物語の構造やそれを想起させる演出等の表現に注目すべきだと私は思うのですが、一般大衆も考察を好む人もストーリーの展開・キャラクター・セリフの三つにしか注目していないからテーマや表現について語ることは少ない。

それでは、いくら考察記事を書いても「解釈」が深まることはない。

それを考察に夢中になっている人は分かっているのか!

以上、言いたいことは言い終わったので最後に一言。

本作には

「形」・「真」・「理」が明かされなければモノノ怪を祓うための退魔の剣を抜くことができないという設定があるが、この設定はもしかすると、
「事実」・「解釈」・「意見」のことを指しているのではないだろうか。

であれば、設定上、三つの要素の内一つでも欠けていると退魔の剣は抜けないのだから、件の考察記事を書いている人にモノノ怪を祓うことができないことになる。

果たしてそんなあなたたちの考察

本作を解釈=モノノ怪 唐傘を介錯したことになるのだろうか?

御後が宜しいようで。

ありがとうございました。





















































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