今年私が推した人は推しではなかった
今年一年、私はいったい何をしてきたんだろう。
何を見てきたんだろう。
誰を推してきたんだろう。
今年の推し活まとめなんて書けるわけがない。
私が今年推した人は推しではなかったのだから。
私が応援しているサッカーJ2クラブは去年、リーグ戦ではかなり苦戦し、J2リーグ下位に沈んだ。
しかし今年はJ1昇格という目標こそ果たせなかったものの、最終節まで昇格プレーオフ争いに絡んだ。
去年苦しんだ選手たちも今年は笑顔にあふれた。
私もサポーターとして、数多くの勝利を味わえたこと、選手たちの笑顔をたくさん見られたことは嬉しかった。
ただどこかで苦しい気持ちもあった。
私の推し選手は大卒で加入し、今年在籍5年目を迎えた。
ルーキーイヤーはリーグ戦の出場ゼロ。
プロ2年目は主に途中交代でリーグ戦8試合出場。
3年目の出場は天皇杯の1試合のみで、その後大怪我を負ってシーズン終了。
4年目は復帰してコンスタントに出場し続けたものの、8月の大怪我でまたもシーズン終了。
ポジションは左サイドだが、まだプロ初ゴールを決めていない。
順風満帆なプロキャリアを歩んでいるとは言いがたい選手だ。
2度目の大怪我から復帰した今シーズン。
第2節でスタメンに名を連ねると、その後は一年を通してスタメン争いに絡んだ。
「これで苦しいなんて嘘だろ?」
そう思うかもしれない。自分でもそう思う。
私は推しのプロ初ゴールの瞬間に立ち会いたくて、ホームゲームはもちろんアウェイゲームにも積極的に行った。
しかし推しのゴールは生まれずじまい。
推しがPKを獲得した瞬間は自宅のテレビで見ていた。
しかし推しはPKのキッカーを他の選手に譲った。
別の試合、同じく自宅のテレビで見た推しのシュートは相手に当たってオウンゴール。
そのゴールが決勝点になったものの、その後負傷してヒーローインタビューは別の選手が受けた。
去年の8月に相手と交錯して担架でバックヤードに運び出された際、ものすごく悔しがっていたということは人づてに聞いている。
血の滲むような努力をしてきたことはプレーを見ればわかる。
ただどうしても推しの努力が報われない。
推しがヒーローにならない。
去年苦しんだ選手たちがゴールを決め、ヒーローインタビューを受けて文字通りヒーローになる。
サポーターから「今までの努力が報われたね!」と賞賛される。
そんな光景を見るたび、私の感情は醜いほどにねじ曲がってしまう。
私の推しだって努力している。
それなのになんでサッカーの神様はそっぽを向くのか。
苦しい気持ちを抱えたまま、私はオフシーズンを迎えた。
今年のまとめとして、noteに何を書こうか。
一年を通してスタメン争いに絡んだ推しを褒め称える?
推しの素晴らしさを改めてみんなに知ってもらう?
色々書いたが、結局まとまらなかった。
上っ面だけの綺麗な言葉で埋め尽くそうとしても、やはり根底には苦しい気持ちがあったからだ。
ではこの「苦しい気持ち」とは、なにが原因なのだろうか。
まず私を苦しめるものの正体を考えてみることにした。
まず自分に問いかけてみる。
「なぜ私は苦しい気持ちを感じるのか?」
それは推しの努力が報われないからだ。
「なぜ報われないと感じるのか?」
プロ初ゴールを決められなかったり、ヒーローインタビューを受けられなかったりと、なかなかヒーローになれないからだ。
「プロ初ゴールを決めてヒーローインタビューを受けてヒーローになれば、推しの努力は報われたことになるのか?」
フィールドプレーヤーなら、ゴールを決めてヒーローインタビューを受ければ、本人としても周りとしても「努力が報われた」と感じることが多いだろう。
「それは一般論であって、実際のところ推し本人がどう思っているかは聞いたのか?」
……聞いているわけがない。
ここまで自問自答して、私は気付いた。
推しの努力が報われる瞬間は、推し本人が感じるものであって私が決めるものではないということに。
もしくは私が勝手に想像するものであって、それが推し本人の認識とは大きくかけ離れているかもしれない。
2度の大怪我を乗り越え、ゴールを決めてヒーローインタビューを受ける。
私はそんな美しいストーリーを脳内で作り出していた。
そしてその理想を求め続けて、一人で勝手に苦しんでいたのだ。
今シーズン出場機会のなかった選手やそのファンからすれば、一年を通してスタメン争いに絡んだ推しは十分報われているだろう。
メンバー表に名前がないことが当たり前だった時代の推し本人や私から見ても、今現在の推しは恵まれている。
ただ出場機会のない選手もいれば、当然出場機会の多い選手もいる。
出場している選手がヒーローになる姿や、その選手を推すファンの喜びはどうしたって目につく。
それらを見るうちに「私も推しがヒーローになる喜びを味わいたい」という欲望が芽生え、ぐんぐんと増幅した。
4年間の恵まれないプロキャリアを見てきて、鬱積した思いもあったのかもしれない。
そして欲望にまみれた私は「推しにもこうであってほしい」という理想像を作り、それを押しつけてしまった。
美しいストーリーを描く理想の推しと、思い通りにならない現実のせめぎ合い。
これが私の「苦しい気持ち」の原因だったのだ。
私はこの一年間、いったい推しの何を見てきたのか。
「出場したけど、アシストを決められなかった」
「得点に絡んだけど、ゴールは決められなかった」
私が思い描く理想に沿った展開にならず、推しに「もっとできる」と筋違いの期待ばかりしていた。
ずっと苦しいに決まっている。
なぜなら今年、私が推していたのは推しではなく、推しの理想像だったのだから。
来年、私はありのままの推しを推す。
もちろん多くの試合に出場してほしいし、ゴールだって決めてほしい。
それはサッカー選手を応援する以上、誰もが自然に抱く期待だ。
ただ自分が作り出した推しの理想像は今ここで消し去りたい。
推しの現役生活は無限ではない。
つまり私が推しを推す時間にも限りがあるということだ。
ならば推しの理想像を追いかけて、ありのままの推しを見ないこの一年間はあまりにももったいない時間だった。
いや、この時点で気付けて良かったと言うべきか。
推しがゴールをたくさん決めてヒーローになる快感を味わいたいだけなら、私はとっくに別の選手を推しているはずだ。
本来私が推しを推す理由は「この人のことが好きだから」という単純なものなのだ。
「どんなところが好きなの?」と言われても言語化できるものではない。
あえてエピソードを挙げるとすれば、一昨年から去年の初めにかけて怪我の影響で8ヶ月もの間、推しの姿を見られなかった時期があった。
当時は不安でいっぱいだったし、あまりの辛さに推すことをやめようかと考えたことすらあったほどだ。
それでも去年の2月にキャンプに合流し、スパイクの紐を結ぶ推しの写真がクラブ公式SNSにアップされた時、不安や辛さなど暴れていた気持ちが一カ所にストンと収まった。
「あ、やっぱり私はこの人のことが好きなんだ。私の推しはこの人だ」
自分の中でそう納得したことを覚えている。
それがどういう理屈かはわからないし、わざわざ解明しようとも思わない。
ただ私は推しのことが好きだ。
恋愛感情はない。「一人の人間として」と言うには彼について私はあまりにも無知で、プライベートまで知ろうとは思わない。
やはり私にとって彼への気持ちはただ単に「好き」だけだ。
ならばその大好きな推しが現役生活を続けている「今」を噛みしめたい。
来年は出場機会があってもなくても、ゴールを決めても決めなくても、今この時を生きる推しを推すつもりだ。
推しを推す上での不安や葛藤はこれからも続くだろう。
「私はこれで絶対に大丈夫!」という言葉は、私の口から永遠に出てこないかもしれない。
それでも「推しが好き」という気持ちだけはぶれず、悩み苦しんだ時も立ち返るべき場所になるだろう。
今年私が推した人は推しではなかった。
理想の推しよ、さらば。
今を生きる推しよ、来年もよろしく。