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「いつか」じゃ動けない──“ライブ感”重視のADHD流学習スタイル
#AIとやってみた
以前、普段から自分の頭にある考えを整理できていない段階でも書き留めたいと思い、以下のような記事を思うままにブログに投稿しました。が、やはりカオスをカオスのまま書き出すと読みにくいと感じたので、論点は維持したままAIを活用してリライトをしてみたのが今回の記事です。
自分が書きっぱなしにした文章と比較しても格段に読みやすくなっていると思います。AIを用いるとどうも人間味がなくなってしまうので、まだ慣れない部分はありますが、書いている最中にももう別のことに意識が向いてしまう脳内多動な自分のような人間は、全部をAIで書くのではなく誤字脱字のチェックや推敲などで上手く活用していくのが良いと思っています。
基本内容は前回の記事と同じですが、最後に今後書いていきたいと思っている要素について追記しています。
はじめに
今回のテーマは、「ADHD的特性」と「自分に合った学び方」についてです。子供の教育に注目が集まる昨今、アクティブラーニングなどさまざまな手法が注目されていますが、私自身が「どうしても体験からしか学べない」タイプであることに長年悩んできた経験から、その可能性や課題を考えてみたいと思います。
1. 体験からしか学べない感覚
私は昔から「自分が実際に体験したこと、経験からしか学べない」という感覚を抱いてきました。最近では能動的学習(アクティブラーニング)の重要性が言われていますが、私の場合は「体験を通した学び」しか身に付かず、それ以外の手法が極端に苦手です。
ポイント
● 書籍や動画教材など、体系的に整理された学習ツールを受動的にインプットすることが苦手
● 「今すぐ必要なこと」しか興味を維持できない
● 「いつか使うかもしれない知識」を先取りする学習スタイルが合わない
2. アクティブラーニングとの関わり
アクティブラーニングは「能動的に学ぶ」スタイルであり、子供たちの興味や可能性を伸ばす手法として注目されています。モンテッソーリ教育などに代表されるこの学習観は、私にとってとても自然なアプローチに思えます。
しかし
私の場合、能動的学習でも「今、解決したい問題」があるときだけ集中できる逆に言えば、少し先の未来のための学習や、体系立てた勉強には大きな負荷を感じてしまう
こうした学習スタイルの偏りが、私が学校になじめなかった一因ではないかと考えています。
3. ADHD特性との関連
この「ライブ感重視」「興味の移り変わりが激しい」という特徴を考えるうえで、ADHD特性が大きく関係していると感じます。ADHDと一口に言っても症状は人それぞれですが、私の場合は以下のような傾向が顕著です。
● 集中力の切り替えが激しく、興味が移りやすい
● 過集中が起きたときは驚くほどの没入をするが、そうでない場合は全く手につかない
● 「今この瞬間、必要性に駆られたこと」以外は興味を持続させにくい
実際、私は学校にほとんど通わず、長く不登校を経験しました。学歴もないまま社会へ出ましたが、「体系的に学ぶ」ことが苦手だと自覚したのは社会に出てからです。自分のADHD特性を認識し、どう活かすか考えるようになった今、当時の「学習スタイルの不一致」を振り返るとある意味必然だったのかもしれません。
4. 「障害」という定義への違和感
ADHDをはじめ、「障害」とされる特性に対して違和感を抱くようになったのは、身近に同じような特性を持つ家族がいたり、自分自身が飽き性で色覚特性もあるのにデザインの仕事をしていたりした経験がきっかけです。
「飽き性」「落ち着きのなさ」など、社会通念上は「直すべき欠点」とみなされがちな要素も、捉え方を変えれば生きる武器になるかもしれないと感じています。
以下は自分の例
● 色覚特性があってもデザイナーとして働いている
● ADHD特性があっても仕事や創作を続けられている
● 過集中も注意散漫も創造的な活動や問題解決に役立つ
こうした例は、特性を「障害」とする定義が本当に正しいのか、改めて考えるきっかけになりました。
これについては「障害である」が確かに正しいとも言えるものの、私自身はそれで思考を止めてはいけないと思っていて、あくまで「今現在の病理モデル(精神医学会のDSM-5)が定義するところの」という前提条件があり、そこに疑問の余地を見出さない場合はといった方が良いかもしれません。
そのうえで納得できるのであればそれでもいいのですが、そこには限界も存在します。これについては、別の記事で扱いたいと思います。
5. 人間の多様性と新しい学びの可能性
学びや働き方を見つめ直すうちに、人間の認知特性の多様性に興味を持つようになりました。テクノロジーの進歩によって個々人に合わせた学びが実現しつつある今、私たちは画一的な「詰め込み教育」や「受動的学習」から次の段階に進むべきではないかと考えています。
● 認知特性に応じた最適な学習スタイル
● 個人の興味や必要性をリアルタイムに反映する教材やシステム
● 「できないこと」に着目するのではなく、「自分にとっての最適」を模索するのがスタンダードになる社会
このような発想が広く受け入れられれば、私のように学校になじめなかったり、「障害」と言われる特性に葛藤しながら生きてきた人たちにも、新しい可能性が生まれるのではないかと思います。
おわりに
結果的に、私の「体験からしか学べない」という感覚は、「ライブアクティブラーニングしかできない」というスタイルに近いと捉えられそうです。昔はそれを大きなハンデと感じていましたが、近年の研究やテクノロジーの発展を見ていると、こうした特性を活かせる世界が少しずつ形になってきている気がします。
余談
この性質を「ライブ感」と言う観点から捉え直すと「ある事」と共通項がみえてきませんか? そう、90年代に提唱された「ハンター(狩猟者)/ファーマー(農耕者)仮説」です。「ニューロダイバーシティ」と言う言葉が生まれたのもこの時期です。これらを言葉だけの簡単な理解で止めるのはすごく勿体ないので、また別の機会に書けたらと思います
まだまだ試行錯誤の途中ですが、これからも「学びの多様性」「認知特性」「ADHD特性を前提としたライフスタイル」などについて考え、文章を書いていきたいと思います。
近いうちに自分がADHDの診断を受けてから12年の間の状況の変化、近年の研究における認識のアップデート、それらを踏まえた上でDSM-5を軸とした現在の神経発達症(発達障害)の定義について思うことなど、ADHDの過去と現在と未来の可能性について書きたいと思っています。
長文を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
注:ここに書いたことは、あくまで私の個人的な経験や感覚に基づくものであり、客観的な研究や他者の経験則にそぐわない可能性もあります。