少年の瑞々しさと「カルチベート」
さて、50歳を過ぎて読み返した 太宰治「正義と微笑」。
これが、実におもしろい。
この年頃の男の子の葛藤、希望、自我、はにかみ、憂い、そして輝きが、少年の言葉で溢れんばかりに描かれて、こどもでもない、大人でもない「少年」の瑞々しさが際立っている。(厳密にいえば「少年」と「青年」の間ぐらいになるのだろうか)
もちろん、男の子に限らず、こういう特有の時期はあるものだが、やはり「少年にしかないもの」が存在するように思う。
そして、もうひとつなるほどなと唸った文に出会った。少年が出会う「黒田先生」の言葉だ。
「勉強」の意味を「カルチベートされること」と説いている。
学校での勉強だけがカルチベートへの道だとは思わないが、ともあれその大切さ、尊さを改めて感じた。
目まぐるしく変化していく世界、カルチベートが置き去りになっていないかもう一度考えたい。
引用元:
太宰 治(1942年6月)「正義と微笑」
kindle版 青空文庫 底本:「パンドラの匣」新潮文庫(1973年10月)
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