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聴いて欲しかったのは「誰かに」ではなかったらしい


この記事は完成させたまま公開しようか削除しようか、1ヶ月以上迷ってた(笑)ものです。とにかく長いし、わたしの中で今後noteが書きづらくなるかなぁとかグルグルしてたけど…なんとなく公開した方がいい気がして、というざっくりな理由で公開に至ります。


お時間のある時にでも読んでいただけたら、なnoteです。
↓↓↓


思いつくまま書いているこのnoteとは反対(?)で、人といるときは基本的に聴き役が多めになる。かと言って、おっとりは全然していないのが残念です。(このnoteでは耳を傾ける、心で聴くようなニュアンスの「聴く」で書いてます)


コミュニティだと、特別喋る人、その人に合わせて喋る人、リアクションがめちゃくちゃ良い人、うんうん、ってニコニコ聴いてくれたり、静かに耳を澄ませてくれている人。色んな人がいる。


これは一対一でも喋る配分ってあると思っていて。当たり前だけど5:5ってなかなか遭遇しない気がする。多くは7:3、あたりかな。8:2、9:1になることもある。
話の内容によってそうなることは当然だし、そこに良いも悪いもジャッジはない。


でも、やっぱりわたしも聴いてもらえると嬉しい。話すのと聞くのが同じくらい割合の友人とか家族といるとすごくホッとする。話をうんうんって聴いてくれる人に遭遇すると、あたたかいなぁ✨って感じるのです。

以前に少しカラーセラピストをしていたことがある。受ける方ではなく、提供する方。


仕事だと空想スイッチはオフ↓


ありがたいことに受けてくれた人からは聴いてもらえて良かったって言ってもらえた。
でもセラピスト側のわたしは納得してなくて
うそだ、これでいいの!?わたし何もしてないよ!?色の意味を伝えながら話を聴いてるだけだよ?いいの!?とどうにも腑に落ちなくて。

※語弊のないように補足すると「カラーセラピー」は大変素晴らしいものです。


練習にもよく付き合ってくれた友人にその話をした。そしたら何度も「それがいいんだってば✨」と逆にわたしが全肯定のセラピーしてもらってるくらい励まし&後押ししてくれた。(本当、なんて素敵な友人なんだろうな。ありがたい。)

でも、今ではわかる。
そのくらい、人は聴いてもらえると癒されることを。


振り返れば「話を聴いてくれるよね」「相談しやすい」そんな言葉をよく貰っていた。でも、わたしからしたら普通に聴いているだけなんだけどなぁ。なぜこんなに言われるんだろう?と不思議だった。


だけど気づけばその褒め言葉に、自分から前のめりに洗脳されにいくことになる。笑
わたしに求められているのって聴き役なのかな?
と盛大な勘違いをしていった。
もちろん聴くことは全然苦じゃなかった。接客の仕事も好きだった。だからセラピストにも興味を持ったし。

…でも、プライベートで人の話をキャパ以上に聴きすぎたのか。



ある時
本当はわたしも話を聴いて欲しかったな
そんな思いが湧き出てきた。


いつも聴いてほしいことがあっても
相手に譲った方がいいかな
とめちゃくちゃ聞き役に徹していたから。
…なんて奥ゆかしい。それのおかげで相槌そのものを褒められるほどになっていた。
※残念ながら今はもうそのスキルはない。

でも、実はこれも違かった。
長くなったけどここからが本題で。
 

本当は話を聴いて欲しかったのは
「わたし」が「わたし」に
だったのです。


いやー、衝撃。
ずーっと、わたしの頭の中はわたしが不在だった。留守。いや、長期旅行。


それに気づいてしまったら
人に話を聴いてもらいたいとかどうでもよくなって。そのかわり、わたしがわたしの話を聴いてあげよう!って強く思った。

それまで誰かと会話をしてて
おやおや?今、話を(心で)聴いてくれていないぞ?って思ったことが多少なりともあったのも事実で。

でも、これは相手は全く悪くないし、その「聴いてくれない相手」を引き出していたのは自分。
心のどこかでどうせ聴いてもらえないしな、っていう思い込みを自分で作っていたから。
(でも自分も責めない。)
しかも、本当は周りも普通に聴いてくれるのですよ。笑

それがわかってからは、なるべく自分に色々聴くことにした。

今どうしたい?
今何食べたい?

そんなことでも十分満たされることを知った。
自分を幸せにできるのは自分だけだし、最後まで一緒に生きていくのは自分。
それならたくさん話を聴いてあげたいし、幸せにしてあげたい。

本当に聴いて欲しかったのは自分だった、というわたしの中では衝撃の事実のエピソードでした。


それでは長々と最後まで読んで下さってありがとうございます。
今日も明日も素敵な一日でありますように。




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