儒林外史 第一章 序にかえて (5)
翟の報告を聞き、知事は思った。
「なにが病気だ! きっと翟のやつ、農村で威張り散らして、縮み上がらせたんだろう。これまで役所の人間に会ったことのない若造だから、すっかり怖くなってしまったに違いない。危先生の頼みだというのに、連れてこられなかったとなれば、私のメンツは丸つぶれだ。ここは私自ら村へ行って、相手の顔を立ててやり。困らせるつもりはないと分からせれば、自ずと肝も太くなってくるに違いない。すると先生のお宅に連れていくのも難はない。我ながら完璧な計画ではないか。」
だがまたこうも思った。
「いやしくも一人の県知事が、農民に頭を下げに行ったとなれば、役所で笑いものになるのではないか?」
だがまた考え直し、
「先生の先日の口ぶりでは、大変な尊敬のされかたであった。先生が十分の尊敬を払われるとあれば、わたしは百分の尊敬を払ってしかるべきだろう。身分を顧みず賢者を敬った権力者として、将来史書でも称賛されるに違いない。これは千古不滅の行い。早速実行しなければ!」
そうして決意を固めた。
翌朝、知事は駕籠かきを集め、副知事は伴わせず、8人の赤黒帽警備係だけを引き連れ、翟庶務課長が付き添って、まっすぐ村へやってきた。銅鑼のひびきを聞きつけた村人たちは、老人をたすけ子供をかかえ、ひしめきあって見物した。駕籠が王冕の家の前に近づいてくる。7、8間ほどの草屋には、白木のドアがぴったりと閉められている。翟が駆け寄って、ドンドン戸を叩く。しばらく叩いていると、中からおばあさんがひとり、杖をついて出てきて言った。
「いま家におりませんよ。朝早く牛に水を飲ませに行って、まだ帰ってこないんです。」
翟は言った。
「知事どのがお見えになってるんだ! どこに言ったか早く言いなさい! 私が知らせに行ってくる!」
おばあさんは、
「家にはおりませんで、どこにいるかわかりません。」
と言うと、戸を閉めて中に消えた。
そうこうしているうちに、知事の駕籠が来てしまった。翟は駕籠の前にひざまずいて報告した。
「王冕に伝えようとしましたところ、家におりません。宿にお寄りになって、しばらく休んでいてくださいませ。行って呼んでまいります。」
駕籠につきそいながら王冕の家の裏手に出た。そこは横7縦8、細いあぜ道が入り乱れ、遠方には一面の大きな池、池のふちには楡や桑がうわっている。池のあたりは広々と田地がひらけ、さらに山もあった。さほど大きくはないが、青々とした樹木に覆われているせいぜい一里(500メートル)ほどの距離。呼べば聞こえる距離である。駕籠が進んでいくと、遠くから牧童がやってくる。水牛に後ろ向きに乗って、山を回ってやってくる。翟は大急ぎで近寄って、
「秦の次男坊か! 隣の王が牛に水を飲ませに行ったのを見なかったか?」
と言った。
「王の兄貴かい? ここから20里むこうの親戚へ酒を飲みに行ったよ。この牛は兄貴ので、代わりに連れて帰ってくれって頼まれたんだ。」
翟がこのことを知事に伝えると、知事はムッとして、
「そういうことなら、宿へ寄るまでもない! いますぐ役所へひきかえせ!」
と言った。
知事は心底怒っていた。本来であればすぐにでも王冕をとらえさせ、懲らしめるところだが、危先生に乱暴を咎められるかもしれない。ここはひとまずひきかえし、いずれ危先生に、引き立ててやるに値する者ではないと説明してから始末しても遅くはあるまいと考え、知事は帰っていった。