ぬくもり
ベッドの中で、彼はもぞもぞと動いた。掛け布団が引っ張られるせいで、私の体が少し布団の外に出る。いつものことだ。夜の空気に触れる肌から冷えていくような気がして、あっちを向いて寝息を立てる彼の背に抱き着いた。これも全部いつものこと。
―ん…
返事とも寝言とも取れないくぐもった声を出しながら、彼はこちらを向くように寝返りを打った。彼が吐き出す空気は、存在感を放っている。
―ごめんね
そんな言葉が口をついて出てきた。
―まだ寝る…
彼は唇の間から声を漏らした。彼は上の空どころか夢の中で、いきなり寝ぼけたことを言うものだからおかしかったけれど、起こすと悪いから私は声を出さず肩と口だけで笑う。
毛布がぐちゃぐちゃで、二人が横臥する位置も均等じゃないベットの上。規則正しく膨らんではしぼむ彼の体は、夜でも見失わない確かな輪郭を持ち、隣の私を温めてくれる。
角部屋である自分の部屋の鍵を開け、玄関で靴を脱ぐ。履きならしたブーツは彼と出会った頃に買ったもので、私の玄関の古株だ。ベースの黒に差し色の赤が映えている。
西日が強く差し込む部屋で、リビングの窓を通ってきた黄昏時の濃い橙色は、廊下にまで染み込んできている。ドアを開けると、西日に温められた埃の臭いが鼻を突いた。
隣室がない側、このマンションの外壁側の壁際に置いてある本棚の上に、彼と私が映った写真が飾ってある。初めて二人で旅行に行った時のものだ。嬉しそうに笑っている私の顔だけが、あの日の赤みを保っている。
水を入れた花瓶に帰り道で買ってきた桃色のチューリップを挿し、写真の傍に置いた。西日で橙に染まる部屋の中で、その桃色は揺らぎ、何色にでも染まりそうだ。
蛍光灯が照らすテーブルの上には、二人分の食器を置いた。彼の誕生日である今晩だけは、ちゃんとお祝いをしないといけない。彼の好きな物を作り、彼の好きな音楽をかける。読み方を教えてもらって名前を覚えたバンドは、聞けば聞くほどハマった私が語っても、教えてくれた彼は淡白な返事をする。ライブに行くのも私だけ。
テーブルには彼の好きなロールキャベツをメインに、ポテトサラダ、ミネストローネ、バケットと奮発して買ったバターを広げた。テーブルを眺めまわす彼の嬉しそうな声が聞こえてくる。いいでしょ、と私は返す。
グラスに注いだ紅色が、喉を通って鳩尾あたりの奥深いところに溜まるのを感じる。彼は赤ワインが好きだ。交際をはじめて一周年の記念日に、当時の私たちにとっては高級なレストランを訪れた。その時に彼はいたく赤ワインを気に入ってセラーを買い、ワインをストックするようになった。二人とも下戸だからそんなことをしても仕方ないのに、好きというそれだけで肯定できた。
本棚の上の写真に目を移す。日々窓から差す陽光で、彼の顔のあたりは写真そのものが日焼けし褪色していた。この写真と記憶は簡単になくならなくて、綺麗なものになってしまった。近くに置いておかなくては気が済まない。
冷蔵庫が重苦しい稼働音で、生きていることを主張してくる。本棚の上に設置している時計が秒針をマイペースに走らせ、さりげなく己の所在を添える。誰も声を発さず、外の音も入ってこない。この静寂には慣れてきた気がする。私に人混みに連れ出されていた彼が、今は私を得意気に笑う。彼は喧騒が嫌いだから、今の私の気持ちは彼にはきっとわからない。
スープが少しずつ冷めてきたのか、私の舌が熱に耐えはじめたのか分からないけれど、食事を躊躇わずに喉に通せる。何も食べられなくなるくらいおかしくなるかと思いきや、平然と居られる私を見つけた時は自分でも驚いた。少しの呆れもあった。
それでも温かいものが自分の中に見当たらないから、きっと彼があたためてくれているのだと、グラスに口をつけて溜飲を下げる。向かいの席に佇むグラスを見て、埋め合わせなど存在しないことを確かめるのは、私のエゴだ。
テーブルに広がった食事も、全く水位の下がらないグラスも、ひとりきりで空にするには無理があるのだろうか。底が深いスープ皿に注がれたミネストローネも、クリーム色の皿に盛り付けられたロールキャベツもますます冷めていく。
彼は大きい一口で、料理を美味しそうに頬張る。私と違って猫舌ではなく、熱いものも苦としない彼は食べ終わるのも早い。碌な感想も出てこない代わりに、必ず「美味しい」と言う。その声が今はただ聞きたい。
胸に圧迫感を覚え、私はグラスだけを持ってベランダへ出る。蛍光灯よりも月明りに透かす方が、グラスは紅く飾られる。照らされてふつふつと気泡を吐き出すようにも見えるから不思議だ。
仕事のある日は家で顔を合わせるしかない日が多い。でもごくたまに最寄り駅から二人で歩くことがある。駅前の雑踏を抜ける頃には、近づかないと聞こえないくらいの声で話したりする。でも彼はじれったいから、腕を組むのはいつも私から。
だから、彼が私以外と密着しながら歩く光景は、なかなかの衝撃だ。神経質な彼はいつもマスクをしている。彼の目元だけでも十分私には判別がつく。けど、それが仇になる時もある。どんな気持ちなのか、瞳を見ればわかってしまうから。
それが家族でもなんでもない、でも〝普通〟では言い表せない女性なのはわかるし、私と引き比べるまでもないこともわかる。私の今に繋がる、〝あったこと〟であればまだ許せたのかもしれない。でも「許す」なんて言葉を使う自分も、使わせる彼も、到底気に入らない。そういう心になっている。記憶は黒いまま。
身体が少し冷えた気がして、私は窓を開け、部屋に入る。思っていたよりも時間が経っていた。皿はどれも冷めてしまっているかもしれない。約束通り用意した料理も、全て食べきってしまえば思い出になってしまいそうだから、きっとこれがちょうどいい。
ねえ見て、と空に訴える。好きな物を揃えたの。いつもより美味しくできてると思うのよ。何回目になろうとも、気持ちが目減りすることはないから、ずっとこうやって祝うことができるの、と。
グラスを机に置く。四秒ほど波が立ち、水面は白い明かりを反射する。初めての旅行の時に見た海も、夕日を飲み込んでこんなふうだったなと思う。晴れだったのか雨だったのかも忘れたけれど。やっぱり、ああいう時間をもう一度願ってしまう。ひとりでも歩けるほどのあかりをくれた、彼との時間を。
キッチンに向かい、冷蔵庫の横にある八本収納のワインセラーを開く。彼を支えた四肢が上下段に分かれて安置されている。最初は流々と溢れる血を瓶に詰めるだけで日が暮れたけれど、もう絞ることも意味がないと思えるような状態だ。
冷蔵庫には彼を生かしていた胴が鎮座している。日を追うにつれてなんだか萎んでいくようにも見える。いつかなくなるのだろうか。でもその終わりがいつまでも遠いままであってほしいと、そう思わずにはいられない。
彼を彼たらしめていた首は、誰にも秘密の場所に隠してある。精力的な脂ぎった肌も、鋭くつり上がった目も、並びの良い歯も、そのどれもが彼を彼たらしめるものだったけれど、最終的には必要ない。私だけが彼をわかっていれば、それでいい。
早くその時が訪れないだろうか。右耳につけた彼がつけていたピアスと、左耳につけた彼が持っていた女物のピアスを触る。彼への愛情が時間の経過で冷めることなど欠片も不安ではないけれど、気持ちは逸ってしまう。
大丈夫。ずっと彼が私を飾ってくれるのだから。私が彼を飾るのだから。ずっと愛しいまま、ひとりでも眠れる。だって、あたたかいのだから。
inspired by 「ずっとそばに」/Cö shu Nie
https://www.youtube.com/watch?v=X_hujJnYeDE
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