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『アンサー』(1)

 二階の部屋を出て、リビングに向かうために階段を下りる。十四段あったことを確かめ、階段の傍にあるトイレのドアを開ける。
 トイレで用を足してからリビングに入ると、皿を空にした父と寝ぼけまなこで食パンを咥える姉が、食卓に着いていた。新聞からこちらに視線を寄越した父は、コーヒーの入ったマグカップを口から離し、挨拶してきた。
「おお、おはよう」
「ん」
その後で、姉からも声を掛けられた。
「ぉあよ」
「ぉはよ」
「お姉ちゃんには返すんだよね?」
 キッチンを通り過ぎ、洗面所で顔を洗いながら、朝食を何にするか考える。どうせソーセージはもうないだろうから、目玉焼きで済まそうか。さっぱりしてからキッチンに戻り、冷蔵庫を開けると、案の定ソーセージはなかったので目玉焼きをつくる。味付けはクレイジーソルトに決めている。
「ねえ、今日自転車貸してくんない? 」
朝食を終えてスマホを触っている姉に訊ねられた。
「え、やだ。歩いて行きなよ。晴れてるんだし」
「いやぁ、間に合いそうもないのよねぇ」
「そんな顔してちんたら食べてるからj」
「自転車、貸して?」
こういうときは何も言い返さないのが吉だと、長年の経験で知っている。
「はいはい」
「はい、は一回でいいでしょ」
詰めが甘かった。
 
 今日は一週間の長きにわたった期末テストの最終日。寝不足で集中できないのを懸念して、昨晩は満足できる範囲でテスト勉強を早めに切り上げた。その分今朝は早めに登校し、学校で最後の確認をしようと思っていた。
 しかし、その前に姉との会話でケアレスミスを犯してしまった。しかも自転車までパクられたのが幸先悪い。テスト最終日なので幸先もなにもないが。
「今日がテスト最終日かあ。最後まで気ぃ抜くなよ」
食器を重ねながら言う父に頷くだけで返事をし、目玉焼きに手をつける。焼き加減は上々。
「アンタはいっつも、なぁんか詰めが甘いのよねえ」
テストのことを言っているのだろうが、先ほどの事を思い出し、あんたが揚げ足取ってきただけだろ、と言い返したくなる。実際、詰めが甘かったから交通手段を奪われたのだが。
「じゃあ、今日の夕飯は外で食うか」
何が『じゃあ』なのかはわからないが、外食は素直にうれしい。回転寿司とか行きたい。
「いいじゃん! 久々にお寿司とかどう? 回らないやつとかぁ?」
「いや、流石に回らないとこだと父さん苦しいなぁ…」
「ええ、そうなの? まあいいや、回転寿司も久々だし。あんたもそれでいい?」
「うん、お寿司食べたい」
「よし、じゃあ寿司でテストお疲れ様会だな! サプライズ期待しとけよぉ?」
「やめて」「いい」
「二人が仲良しで、父さん嬉しい」
「「別に良くはない」」
 
         🌻
 玄関先に塀の影が差していて、雪になりきれなかった雫を溢すタンポポたちが目に入る。厳しい冬を乗り越え、吐く息はもう目に見えない。
「じゃ、自転車借りるから」
「今日は早いんだね」
「あたしもテストなの。春休みにもなって…」
ぶつぶつと文句を言う割に声に不満が乗っていないように聞こえるのは、たぶん寿司の力のおかげだろう。ソウルフードはやっぱり偉大だ。
「ふぅん。自転車、乱暴にしないでね」
「はいはい。じゃね」
一回じゃないのか、とは心の中だけで言って、自転車を漕ぐ後姿に背を向けた。くぐもった「さっむっ」が、後ろから聞こえた。
 まだ交通量がそこまで激しくなっていない通学路は、春の到来を待つ、澄んだ空気で満たされていた。もう路面に氷が張っていることもない。
 横断歩道があるところ以外は基本的に目線だけ下に向けて歩く。地面に映る影も、日毎に短くなっているのだろうか。毎日のことで目に見える変化がないから、実感が湧かない。
 住宅街を抜けて県道に出る。そして県道を渡って住宅街に入る。小学生の頃は、夏休みにこの県道を渡ることがある種冒険だった。いつも親の車でしか通らない場所を一人で越えることは、ドキドキとワクワクを伴った挑戦だった。そして大抵、そういった冒険や挑戦も一度やってしまえば慣れるし、当たり前になる。
 学校の正門に辿り着くにはその手前にある信号を渡らなければならないのに、自転車でも徒歩でもこの信号にはいつも捕まる。信号待ちをしていると、後ろから声をかけられた。
「おーいユウキ、おはー。今日は歩き?」
「ヒナタ、おはよう。自転車パクられた」
「メグミさんに?」
「そう」
「仲いいなあ。それより、今日でテストさいしゅうび…くふぁ」
「眠そう」
「追い込まないとマズいのかなって気がして、遅くまで勉強してた」
「夕方は何してたわけ」
「…YouTube見てた」
「それじゃ確かにマズそう」
「ねー」
「あなたのことですよ」
信号が青になった。左右を確認して渡る。
「テスト終わったら春休みかあ。どこか行く?」
「もうテスト終わった話すんの? それにテスト終わって後も登校日ある」
「気分的には春休みじゃぁん。あ、そうだ、アレ出した? 進路希望調査」
「まだ」
足早になる。教室は遠い。
「ちょ、なんで怒ってんのぉ」
早く復習したいだけ。
 
         🖊
 テストの出来は悪くなかった、と思う。あちこちで同級生が「終わったー」と解放感と絶望をごちゃ混ぜにした報告をする中、廊下に出していた鞄を席に持って来た。
 一応この後ホームルームがある。委員会や部活の連絡とか、配布物があったり提出物を集めたりしたらすぐお開きになるだろう。ヒナタは部活が休みだから、帰りにどこかで昼ご飯を食べてこうと誘ってくれた。
「うぃー、席着けー。テストは終わったけどまだ放課後じゃねえぞぉ」
担任が帳簿を持って入って来た。連絡だけして終わりそうだなと期待する。
「ほい、じゃあ連絡事項だけど、数学はこのあと提出物を集めて出せとのこと。あと、野球部。監督さんから伝言で、今日オフ。で…ああうるさい、静かにしろ。後で喜べ。で、進路希望調査、これもうすぐ締め切りだから。まだの人は早めに出すように。以上、号令」
 挨拶をするや否や、野球部員が半狂乱になりながら鞄を担いで教室を出ていった。オフにあの体力を持て余すのも、勿体ない気がする。
 スマホを見ると、ヒナタからLINEが来ていた。『昇降口にて松』。
「誤字ってる…」
「誰が誤字ってんだ?」
「っ…。先生」
「スマホは放課後だから見逃す」
「あ、ありがとうございます…」
「進路希望、まだ出してないだろ。迷うかもしれんが、一旦思ってるところ書いてみてくれ。調査書に書いたくらいで、進路が確定するわけじゃない」
「…はい」
「それだけだ。じゃ、気をつけて帰れよー」
解答用紙を提出したらその時点で点数が決まるテストとは、違う。
「そんなこと考えてんの?」
昼食を終えてファストフード店を出た後、車道側を歩くヒナタがこちらを見ながら言った。
「ヒナタは考えないわけ?」
「返ってくるまでは、ワンチャン百点取れてないかな、とかは考えたりするよね」
「よね、って…」
「そもそもテストの点数と進路を同じ目線で考えちゃダメじゃない? ダメ…、ダメというか、ちがくない?」
「それはそうだけど」
「悩んでんだ? ナゲットのソースはすぐ決められたのに」
「ソースと進路は別モンじゃん」
「それはそうだね」
信号が赤に変わる。
「家の人は何て?」
「…まだ言ってない」
「気にしてんじゃない?」
「わかんない。でも、多分そう。ヒナタは? 話してんの?」
「うちはそこまで裕福じゃないから、できれば公立、って雰囲気。実際興味あるとこ何個かあるし、全然悪くないなって」
「ヒナタ頭いいし、選べそう」
「まあそのあたりも含めて、親も思ってんじゃないかな」
「…いいな」
「私立もよさそうだけど」
「そうじゃなくて」
 信号が青に変わる。
 無言のまま少し歩いて、分かれ道についた。お互いの顔を見合う。
「「じゃ」」
 いつもの帰り道を歩く。

        (続)

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