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30歳独身、“アラサー”というカテゴライズについて
わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色の稲穂
20代後半に差し掛かった頃、友人に「うちらもうアラサーだからさ~」と言われ、「その“うちら”って言うの、やめてくれないかなあ」と思ったことがあります。「その主語、Weじゃなくて I(アイ)で話してくれないかな」という感情は、わたし自身が“アラサー”ということばにネガティブな印象を持っていたために起こるものでした。「あなたは自分のことをアラサーと分類しているかもしれないけど(それについては良いとも悪いとも思わないけど)、私はただ○歳なのであって、アラサーというひとまとまりに属している意識はないんだ」と。
30歳前後を意味する「アラサー」ということば。同年代を表現する際に非常に便利なことばですから、「アラサー」を自称する方に対して嫌悪感を抱いたりはしません。むしろ親近感を覚えますし、noteのようなSNSではズバリ年齢を記載するよりも個人特定されにくく、またわたしのように親近感を覚える層も広がりますから、むしろそう記載すべきとすら思います。だけど、そのことばが自分に向けられたとき、すなわち「あなたはアラサーだ」と面と向かってカテゴライズされたとき、20代のわたしには少しの反抗心が生まれてしまったのです。
30歳の今、どう線引きしたってアラサーに該当する年齢になりました。年齢にいささか敏感なわたしは、自分が30代に突入したことを受け入れたと同時に、「アラサー」とカテゴライズされても実年齢以上に見積もられることがないことに正直すこし安堵しました。「30歳までには結婚、転職活動」と言われる“年齢基準”の世の中で、自分のきもちが振り回されて、焦っていたことにも改めて気付かされます。最近になってようやく「今が1番若いんだから。年齢やカテゴライズなんかに左右されず、もっと自由に、やりたいように人生を切り開かなくては!」と思えるようになりました。…とか言って、まだまだモヤッとするときもあるけどね。
さて、あの頃わたしは中学生だったと記憶していますが、国語の授業にて冒頭の詩『わたしを束ねないで』を学びました。「要するに作者は自由が欲しいわけだ」と、子供ながらに解釈した記憶があります。冒頭部分(わたしを束ねないでの一連)しか記憶していませんでしたが、調べてみるとつづきがあったんですね。
わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
座りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風
この詩を子供へ学ばせるとは、教育現場にも中々にエッジが効いたひとがいるものです。妻、母、か〜。わたしも今年の目標を叶えるため、きちんと前へ進まないとだなあ。
最後まで読んで頂きありがとうございました!
今まで自分のことを書いているようで書いていなかったから、この記事はちょっと新鮮、ドキドキ。またお会いできたら嬉しいです。
それでは、またね〜💐