取捨選択ができるようになるまで
何か大きな選択をしなければならないとき、
ぱっとすぐに決められるタイプですか?
それとも、めちゃくちゃ悩むタイプですか?
私は、完全に後者です。
とんでもなく優柔不断。
悩むのが好きなの?ってくらい、
何日も何日も悩む。
決めるために悩み始めたはずなのに、そのうち
悩むこと自体が目的になってるのではないか?
と自分でも思うくらい悩んで悩んで、
しまいには悩んでること自体に疲れて頭を抱え始める。
という本末転倒な状況によく陥る。
そして今、人生で最高レベルにその状況に陥っている。
陥っている、と断定したくないけどたぶん陥っている。
前回の投稿で「逃げてばかりの人生だった」と申し上げましたが、
そうです、
「逃げてばかり」とは、
「決断する」ことからも逃げてばかりだったということ。
決められない。
考えすぎてるうちにどうやって決めればいいのかもわからなくなってくる。
「人生は選択の連続」と言いますが、
「考える」「選ぶ」「決める」「行動する」
この流れを無数に繰り返すことで人生はできあがっていく。
でも私は、とにかく「選ぶ」「決める」のが苦手。
だって自分で決めた選択が「正解」じゃなかったら嫌だから。
正解じゃなかったら「損」するかもしれないから。
損したら惨めな気持ちになるかもしれないし
自分の選択を後悔するかもしれないし…。
……はぁ。
自分で考えてたこととはいえ、突っ込みどころがありすぎてため息出ちゃう。
「正解」なんてものはあるようでない。
自分のその後の行動によって「自分にとっての正解」にしていくかどうか、それだけですよね。
でも過去の私は、100%完璧な1つの正解があると思っていたんでしょうね。
何か選択をしなければいけない状況が来るたびに、
「すべてが自分にとって理想的な条件である」ようなものを求めていました。
もしそれが存在すればすぐに決断できるんだと思っていました。
そしてなかなか現れないその「正解」を、
「ないなぁ、ないなぁ」と言って
眉間にしわ寄せて、口とがらせて、
探したり、待ったりしていたつもりだった。
でも「ないなぁ、ないなぁ」って言ってる限り見つかるわけもない。
ある時は旅先のホテルを決められなくて悩み、
ある時は新居を決められなくて悩み、
またある時は明日の予定を決められなくて悩む。
たとえば部屋探しなら、
「ここは部屋が広くて過ごしやすそうだけど家賃が高い」
「こっちは家賃は良いけど駅から遠い」
と、すべてが理想通りな部屋なんてなかなか見つからないですよね。
だから条件に優先順位を決めたり、
妥協できるレベルを定めたりする。
だけど私にはそれができなくて、
いつまでもいつまでも探し続けようとする。
「これが○○だったら」決められるのに。
「あれが〇〇になったら」決められるのに。
しかしその「たられば」が叶ったことはたぶんほとんどない。
そして仮に叶ったとしても、おそらく私は別の条件を引っ張り出してきて
「決められない」状況をいつまでも作り続けるんだと思う。
存在しない「完璧」を求め続けて。
そうやって「決められない」という状況だけがループし続ける。
そう、ループし続ける…。
私は気がついたんです。
新居を決めるにしろ旅行の行程を決めるにしろ、
選択ができずにいつまでも悩み続けるという状況が、
形を変え課題を変えて
何度も何度も私の元へやってきていることに。
選択する対象そのものはたしかに毎回異なるけど、
選べずにいる自分とそのときの気分、思考は毎回同じ。
そうか。
私は選ぶ練習をさせられているんだ。
これは取って、あれは取らない。
これは譲れないけど、あれはなくてもいいや。
取捨するという課題をクリアできるまで、
完璧ではない選択肢を受け入れられるようになるまで、
この、「完璧を求めるがゆえに悩み続ける苦しみ」はいつまでもいつまでもついてくる。
悩めば悩むほど「正解」に近づくんだと思っていたけど、違う。
むしろ悩めば悩むほど、決められない状況と経験が続くだけ。
何かを決められないのは条件がそろっていない(外部因子)からではない。
そろっていない条件を受け入れられない自分がいる(内部因子)からだった。
(しかしこうやって文字にするとあまりに当たり前で何を言ってるのかよくわからなくなってきた。)
まぁ何はともあれ、