小笠原一人旅【旅行記:1日目】
【1日目:おがさわら丸】
① 乗船
「お待たせしました、500番台の客室のお客様~ご搭乗ください~」
7月5日 10時15分
竹芝旅客ターミナルに到着。
最終受付けは10時40分だからと余裕でいたものの、すでに乗船は始まっていた。
8番の一番窓口の一番右端のカウンターで予約の画面を見せる。
ここから私の旅は始まるのだ!
「あ、これ本当は印刷して持ってきていただかないといけないんですよ。
でももう時間がないから・・・・・・ちょっと待っててくださいね」
あらぁ、またしょっぱなからやっちゃいましたか、と思っているうちに、眼鏡のお兄さんが他の職員さんたちに声をかけて、何やらバタバタと用意してくださっている。
その間に隣のカウンターでは、しっかり自宅で印刷してきた準備のいい若者が、さくっと手続きを済ませて颯爽と去って行く。
出だしからつまずくのはいつものことではあるけれど、運悪く私のような不届き者に当たってしまった眼鏡兄さんに申し訳ない気持ちでいっぱいである。
にもかかわらず、優しい眼鏡さんは、ひとつの小言を言うこともなく、
「はい、こちらが行きのQRコードです。そしてこちらが帰るときに必要な紙ですので、父島から乗るときに渡してくださいね」
と、なんと帰りの分まで印刷してくださっているではないの。
どこまでも徳の高い眼鏡様のおかげで、賽の河原の石積みのごとく自分の業がちゃくちゃくと積み上がっていくのを感じる。
かといって、もしこの方が、
「ちっ。ちゃんと印刷しとけよ。旅、なめてんのか」
とおっしゃるタイプの人であったら、私の旅の始まりは違うものになっていたかもしれない(自分のせいなのでもちろん何も文句は言えないけれど)
「そんで、今どういった状況ですかね? 呼ばれるの待ってればいいですか」
と、なおもアホ面で尋ねる私を、眼鏡兄様は優しい笑顔でB1搭乗口まで見送ってくれた。
② 船内探検
どうにか無事、船に乗り込んだ。
部屋はもちろん、最下層にある雑魚寝和室である。
いうなれば「タイタニック」でジャックが乗り込んだのと同じランクなのに、これでも片道三万円もするのだ。
この上の部屋にはとても手が届かない。
いつか私もローズのような上等の客室で優雅に過ごしてみたいけれど、どうせ沈むときは2等も特等も一蓮托生……ではなかったな、確か、映画の中では。
出港まではまだ30分ある。
この船内でこれからおよそ24時間過ごすことになるので、私にとってはもはや家と書いてホームである。
ならば隅々まで把握しておくほかない。
トイレ、シャワールーム、レストラン、売店などを一通りチェックして回って、とりあえずデッキに出てみた。
まだ出港していないので、風はない。
ちなみに深界のアビス……じゃなかった、2等客室にはもちろん電波は届かないので、デッキでスマホを開いて情報収集を試みる。
すると、信じられない一文が目に飛び込んできた。
「おがさわら丸の船内はwifiもなく基本的には電波が入らないと思っていてください」
……えっ。皆さんご存じでした?
ほんとに?
甲板からの夕日なうーw
とかエモいツイートをしようと思っていたのに?
どうやらこれから私は24時間、インターネットを絶たなければならないらしい。
ツイ廃涙目である。
とはいえ絶望のさなかにも船は時間通り出港したので、ひとまず風にあたることにした。
大型客船はぐんぐん速度をあげ、大きな橋をくぐり抜けて大海原を目指す。
頬に強い風をうける。
長い髪がなびく。
髪、伸ばしといてよかった。なんかサマになるから。
インターネット?
しかたない、ないものはない。諦めよう。
風に吹かれれば、なんとかなるさと自然に思える。
そういうもんだ。
一通り潮風を堪能し、満足したので船内探検の続きをやることにした。
そこかしこに貼ってある案内を見ると、毛布を有料で貸し出してくれるらしい。
「ちょいとおたずねしますが、毛布は何時まで借りられますかね、へへっ」
気味の悪い客にも決して笑顔を崩さない船員さんはさすがだった。(ちなみに親切にも24時間貸し出してくれるらしい)
ふと、小笠原観光案内という看板が目に留まる。
奥の席にスタッフの方が2名。
客側には誰も座っていない。
0.5秒ためらって、すみませ~んいいですか~と言いながら席に座った。
「あのう、1日目と3日目、何にも予定決まってないんですけど、何かいいとこありますかね」
仮に職場で部下にこんなざっくりとした相談のされ方をしたら、私ならたぶん怒るだろう。
でも、仏の観光スタッフさんは違う。
「いや、パンフレットも一枚も持ってないです・・・・・・」
なんて言っても、パンフを投げつけてきたりはしない。
いったい私はこの船に乗るだけでどれだけの業を積み重ねていくのだろうか。
あまりののんきさに、そろそろ読みながら腹が立っている方もいるかもしれないので釈明させていただくと、私は「何か手がかりがあればいいなあ」くらいの気持ちでこの場所に座っている。
完璧に満足の行くような提案を期待しているわけではないから、仮に興味をそそるようなものがなければ、上陸してから適当に散歩して海に出られる道を見つけたり、知らない植物の写真を撮って調べてみたりするだけでも十分なのだ。
しっかり何かしてもいいし、なりゆき任せでこれといって何もしなくたっていい。
その自由さが一人旅の醍醐味だと思っている。
とはいうものの、結局シュノーケルスポットや初心者向けのダイビングショップ、自分の宿泊先の場所まで丁寧に説明してもらって、観光案内をあとにした。
陸にいた眼鏡のお兄さん含め、みなさんに幸あれ。
ひとしきりぷらぷら彷徨ったあげく、最終的に一番上の階の奥にある展望ラウンジに辿り着き、角ハイを飲みながらこれを書いている。
パッションフルーツリキュールと一瞬迷ったけれど、柄にもないのでやめておいた。
③ よくたべ、よくのむ
ネットの使えない船の上は、やることがない。
人は、やることがないと酒をのむ。
そういうふうに出来ている。
展望ラウンジを出たあとは、売店でオリオンビールとうずらの煮卵を買って、再びデッキへ出た。
風が気持ちいい。
平日午後2時。
煮卵をつまみに独りで一杯やる女。
もしこれが、通天閣のおひざもとの茂みで体操座りしていとしたら、かなり限界っぽさが出たかもしれない。
けれどここは客船の上、しかも潮風のデッキだ。
限界どころか、なんかちょっといい感じ、まである。
たとえワインとチーズじゃなくても。
と、ここで船内アナウンスが流れる。
どうやら14時30分から、初心者向けに小笠原諸島の説明会を開いてくれるらしい。
やることもなく暇なので参加してみよう。
飲みかけのビールを片手にレストランへ入ると、結構人が集まっていた。
司会をしてくれるのは、先ほど親切な観光案内をしてくれた方だった。
ビールをちびちびやりながら、説明を聞く。
小笠原は一度も周りの大陸と地続きになっていない「海洋島」であるため、固有種が多いこと。
父島では絶滅してしまったカタツムリや、母島に残る手つかずの自然のこと。
小笠原諸島へ来るのは初めてなうえ、何も下調べをしていない人間にとっては、すべてが新鮮で大変役に立つ内容である。
今のところ、2日目の予定しか決めていない。母島へ行く船は予約不要で乗れるというから、時間があったら3日目は母島へ渡ってみようと思った。
なんか眠たくなってきたので、自室に戻って一眠りする。
赤ちゃんだからしょうがない。
どこかのお嬢ちゃんが「ねえ! レストランにいこうよお!! おなかへった!! 」と、力いっぱい空腹を訴えている声で目を覚まし、時計を見ると十七時半。ちょうどレストランChichi-jimaが開く時間だ。
注文を待つ長い列に加わる。
並んでいる間、以前Kindleで買っていた科学雑誌を読むことにした。
一応断っておくと、別に私自身は科学に明るいわけではない。興味があるものを片っ端から読んでいくスタイルなだけである。
どうせなら小笠原にまつわる書籍でもダウンロードしておけばよかったと思ったけれど、Wi-Fiが使えないことすら事前に調べていなかったというのに、そんな用意周到なふるまい、私には地球を三周走り回っても無理ってもんだ。
そうこうしているうちに意外とあっさり順番がきたので、鯖の味噌煮セットを注文して食べる。
そのあと甲板に上がって、夕日の沈むのを待った。
残念ながら雲の奥にしっとりと沈んでしまったため、壮大な夕焼けは見られなかったけれど、潮風がびゅんびゅん吹きすさぶ中でみんながじっと立って日が海に沈むのを期待しているようすは、これはこれでなんかいい感じ、だった。
【一日目:おがさわら丸、終】
0.おまけ
おがさわら丸に乗って意外だったのは、シャワールームだ。
女性用だけでも近くに3つあって、鍵のかかる個室のなかに乾いた荷物を置く棚があったり、リンスインシャンプーやボディソープも備え付けてあったり、さらに温水もすぐに出るので使いやすい。
余談だが、私はシャワーを浴びるときたまに「無人島帰りごっこ」をする。
わざわざ名前をつけるほどのことではないけれども、単に「遭難して長いこと無人島にいたので身体を洗うのが超久しぶり」という設定で自己暗示をかけるのだ。
「ふぁあ~~1ヶ月ぶりのシャワーだぜぇ~」
という気持ちで浴びると、たとえ家だろうとそんなによろしくない環境だろうと、半端ない気持ちよさと幸福感が襲ってくるので、みなさん騙されたと思って試してみてほしい。
おがさわら丸の中でも、とんでもない多幸感を感じながら温水を浴びた。
生きててしあわせ!