食の話
自分にとって『美味しいものを食べることは幸せ!』という考えは犬も食わない、まさに反吐が出る思想である。例えるならば、吐瀉物を処理した雑巾を肥溜めへ突っ込み、腐乱死体を落し蓋にして煮込んだ後に蛆虫の卵を振りかけた料理のようなものだ。
もちろん否定はしていない。むしろ嫉妬さえ覚えるほど羨ましい。諸君らの方が正しいし、良いことである。
一応述べておくと、流石に自分にも味覚はある。美味い不味いの判断くらい可能だ。しかし、それが鈍い。
我々の違いをわかりやすく説明すると、扇風機のスイッチと豆電球のスイッチだ。つまり、自分には段階がなく美味いと不味いしか存在していない。ギアがないと言い換えたらわかりやすいだろうか。要するに自分にとって1円の肉も100万円の肉も等しく肉であり、区別がつかない。
このようになった原因はいくつか思い当たる節があるが、本当につまらない話なので今回は割愛する。まあ、美味しいもの主義の人間が捨てる料理を食べ続けるのは、悪い気分じゃない。ひどい扱いを受けている料理には、つい親近感が湧いてしまうから。
親近感で思い出したが、『誰かと食べるご飯は美味しい』というのも理解し難い。それは誰かとの会話が好きなだけだろう。食事そのものの品質は変わっていない。『誰かとの食事が楽しい』ならわかる。実際、ありがたいことに自分も稀だが食事に誘われることがある。その時、行って後悔したことは殆どない。しかし、だからこそ、ご飯が美味しくなるという意見がわからないのだ。人と食を一緒にしてしまっているのは、それぞれに失礼だと思う。自分は捻くれ者だからこそ、両方とも真摯に向き合いたいのだ。要するに、食事と人との思い出は別々に考えたい派だと言いたい。
ちなみに大学時代、自分はトイレでの食事つまり便所飯をよくしていたのだが、かなり心地良いのでオススメだ。大学の食堂という場所は、大抵混んでいて危険である。いつ人間が襲ってきて荷物を奪ってくるかわからないし、何よりうるさくて暑い。刑務所のがまだ秩序があるだろう。そんな場所よりトイレの方が安心安全なのは明白だ。だからトイレでは効率よく食事ができる。吐きたくなったらすぐ吐けるのもイチオシポイントだ。
人間はどんなに願っても腹は減るし喉は渇く。それはとても苦しくてつらいことだ。だから食事をしなくてはいけない。昔、暇で金もなかったので一度餓死しようと思い、飲まず食わずの生活をした。しかし、4日ほどで腹痛や吐き気などが自分を襲い、中々辛かったのですぐに辞めてしまった。自分は誰よりも苦痛が嫌いだ。だから仕方なく食事をする。命を奪う責任に押し潰されそうになりながら。
そんな自分でも、2度と口にしたくないものが存在している。今回はそれを紹介しよう。僕ですら見捨てたいモノが、世の中にはあるのだ。
結論から述べると、雑草とシャンプーは、今の人類が食べるのには早すぎる代物である。特に後者は割と本気で死にかけた。ヤバイ。
順を追って説明しよう。まず雑草だが、これは大学で食に関する実話を書けと言われ、とにかく金と時間をかけたくなかったので、すぐに現地調達できる物かつ他のレポートに負けないインパクトを考えた結果、食したわけだ。ついでに蟻も食べたが、蟻の方は特筆すべき点はなかったので割愛する。
地球に感謝をしながら雑草を無作為に摘み取り、水道水で軽くすすぎ、最後にもう一度雑草に異常がないかを確認。そうして完成したのが、おた犬の気まぐれサラダである。皿を用意するのが面倒だったので、洗った瞬間全てを口に放り込む。
普段スーパーなどに並んである野菜は、先人が積み重ねた努力のおかげで、あそこまで食べやすくなったことを、その時自分は身を持って知った。
雑草と呼ばれる植物の多くは、表面にうぶ毛のようなものが生えている。これが舌に触れると、実に不愉快な気分にさせられる。とくに猫じゃらし。自分の力不足もあるが、飲み込めないほどに穂の部分の主張が激しかった。
味の方はただただ苦いだけなのでそこまでなのだが、雑草らしい青臭さが食事の邪魔をしてくる。だがまあ、それが原因で食べられないというわけではなかった。もし金欠になったら、読者諸君も挑戦してみてほしい。農家のみなさんの有り難みを知る良い機会になる。ちなみに、オススメはクローバーだ。
さて、問題はここからだ。
高校の卒業文集とは、青春の集大成であり、その人物のパーソナリティが殆どわかってしまう、恐ろしい代物だと自分は思う。そんな履歴書よりも鮮明に過去が見えてしまう所へ、馬鹿正直に軽くて薄っぺらい思い出を書き連ねるのは愚の骨頂と言えよう。
だからシャンプーを飲んだ。
つまり、書くネタが無くて飲んだ。後悔はない。堅物の教師らが文集を読んだ時の表情は、中々に傑作だったぜ。なにせ最終稿で全く違う内容になったのだから。人生には驚きが必要なんですよ、とキメ顔で言ったらしっかり怒鳴られた。反省した。2秒ほど。
自分が文章を書く際、自分が敬愛している漫画家である岸辺露伴の『リアリティこそが大事だ』という言葉をモットーにしている。ならば飲シャンを試さない道理はないだろう。
率直な感想を述べると、苦いや辛いや甘いや酸っぱいや渋いではなく、痛い。味覚より痛覚が先に反応するのだ。舌が焼けるような感覚に襲われ、その後に強烈な苦味が体内を支配。苦味の種類はNintendo Switchのカートリッジに近い、自然界には存在しないタイプの苦味だ。
涙を流しつつ、身体中が発している危険信号を無視して飲み込むと、鳥肌が止まらなくなった。いくら体を温めても寒気がする。人体とは実に良くできているなと感心せざるを得ない。
シャンプーと雑草の最も大きな違いは、へばりつく後味だ。吐き気を催すほどの苦味が、常に喉から胃に君臨する。呼吸するたびに気を失いそうになった。洗い流そうにも体内なので、簡単にはいかない。
今まで色々と死にかけた体験をしたことがあるが、間違いなくコレが1番である。まだ生きていたいのなら、飲シャンはあまりやらない方が良いと忠告しておこう。
以上が、自分の食に関する記録だ。流石に一般的なものではない自覚はある。だからこそ、このように記す価値があるだろうと思い行動に移した。では、今回はここら辺にしておこう。
——この記事を読んだ読者諸君が、どうか嫌な気分になっていますように。