おっぱいが包み込む社会
Collier, P. THE FUTURE OF CAPITALISM - Facing the New Anxieties
いつからか社会はおちんちん的な社会になってしまったが、人間はおっぱい的な社会を求めるし、おっぱい的な社会のほうが倫理的な国家、倫理的な企業、倫理的な家族を作れる。
そして何より、おっぱいは美しい。
尚、当然のことではあるが、Collier, P. はこのような表現を使っていない。下に、彼の著書での母権主義的な国家についての記述を引用する。
この後に、Collier, Paul(ポール・コリアー)は自らが打ち出す諸政策を「社会的母権主義」としている。Collier, P. によれば「社会的母権主義」のもとでは、人々は愛国心、つまり国籍をアイデンティティとして共有して結束する。
近年の新たな成功者たち――つまり「新たなスキルを身につけた高学歴者たち」のうち左派は、新たな「被害者」を発見し、彼らにそのアイデンティティを押し付けた。しかし、これでは拠り処とするアイデンティティを同じくする集団、言い換えれば同じアイデンティティを共有する集団から、別々の個々のアイデンティティを有する分裂した集団になってしまう。左派の高学歴者たちこそが「被害者」たちをバラバラにした。これは 'political correctness' という男根を振り回した結果だ。
一方で、右派の成功者たちは、自由、権利という男根を振り翳して、自分たちの利己性を肯定している。寧ろ、それが道徳的であるとしている。経済を促進させれば、最大多数の最大幸福を実現できると信じているからだ。彼らは効用の最大化こそが幸福だと嘯く。
おっぱいに回帰せよ。おっぱいとは、コミュニタリアニズムだ。相互の信頼という温かさは、おっぱいによく似ている。
おっぱいが与えるもの
おっぱいは我々に安心感を与えてくれる。上で「おっぱいとはコミュニタリアニズムだ」と宣ったのはそのためだ。地域社会の相互扶助の精神という原点に、我々は回帰するべきなのだ。それは欧州でも、米国でも、我が国でも同じことが言える。
かつて、我が国では地域の中で家族同士が寄り添って暮らしていた。「全員が全員それぞれの責務を果たすということを全員が知っている」ということを全員が知っている状態。つまり、共通知識を持っている状態だ。そこから信頼が生まれる。
そして地域に所属しているという帰属意識(これもまた、おっぱいだ)を共有し、自分たちがどこに所属し、誰が所属していて、誰がどんな責務を果たすのかを安心する。
我々は、共有されたナラティブを通して、おっぱい(つまり家族や企業や国家などの社会)に帰属し、そのために何をするべきかを認識し、お互いを温かく信頼して生きていくものなのだ。それが自然な人間の感情であり、道徳とは自然な感情に基づいているべきなのである。
おっぱい的な社会
昨今、世間では「何をして生きるのか」「何のために生まれたのか・生きているのか」と迷い、不安に陥っている者が多くいる。これは社会の構成員が確固たるアイデンティティを共有しておらず、各々のアイデンティティを無意味に尊重してしまっているからだ。本人が本来は重みを置いていないアイデンティティを重要だと説かれ、選択肢を与えられていない。
コミュニタリアニズムの社会では、社会の構成員はそれぞれがそれぞれを支える相互扶助の役割を果たし、その恩恵(社会保障や物質的な恩恵だけでなく、義務を果たした者への敬意なども含まれる。)を得て、「何のために」が明確だった。これは、実に、おっぱいが包み込む社会と言えるのではないだろうか。
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