香炉峰の雪~左遷また楽しからずや?
”史実の軛”からの解放
久しぶりにNHK大河ドラマを見始めた。
大河ドラマは「太平記」(1991年放送、2020年BS再放送)「炎立つ」(1993年放送)「八代将軍吉宗」(1995年放送)が好きだったが、それ以降はほとんど見ていない。せっかく日本史啓蒙を目的として作るのならば、いろいろな時代を見てみたい。各時代の暮らしぶりや人々の価値観を知りたい。
ところがいつの頃からか特定の時代ばかり優先して描くようになり、”現代的解釈”や”女性の活躍”を無理にねじこんでは顰蹙を買う作品が多くなったと聞く。織豊政権(16世紀後半)~江戸開府(17世紀初頭)前後、いわゆる”戦国三英傑”の時代を取り上げる作品や幕末作品は正直お腹いっぱいで、制作発表のニュースに接するだけでシャットアウトしてきた。
そもそも日曜日の20時から45分間はテレビ視聴に割きづらい時間帯である。この頃は老いてきて、うっかり夜更しすると翌朝頭痛を押して起きるはめになるので、日が暮れたら刺激的なものには極力触れないようにして過ごしたい。20時台は入浴タイムである。
近年はWeb配信などリアルタイム以外の視聴手段もいろいろできているが、よほど興味を引く題材でなければわざわざ使う気にならない。「鎌倉殿の13人」(2022年放送)はあまり扱われない時代を題材としていたが、足利家をあえて登場させない方針と聞き、「太平記」ファンとしてそれじゃ意味ないでしょと萎え、やはり完全スルーだった。
そんな折、「2024年は紫式部を主役にした物語を作る」と発表された。一瞬虚をつかれた思いがしたが、すぐに
「あっ、その手があった!」
と感心した。
紫式部が生きた時代、すなわち今からほぼ1000年前の藤原摂関家全盛時代は近年静かな人気を集めている。私自身は小学生の頃、当時の歴史まんがで基本人物を押さえたが、高校の古文授業で挫折。そのまま縁遠くなってしまった。
が、私より若い世代の人たちは「現代にも通じる人々の営み、人間関係、心の動き、恋愛模様」に着目してこの時代をとらえているらしい。「枕草子」に基づき、清少納言や周囲の人たちを現代女性風に描いたマンガもできていて、ちょっと目を通してみたらすぐに笑えた。(この本についてはまた改めて紹介したい)武家社会時代の殺伐としたエピソードをスポーツ観戦感覚でとらえたり、著名武将や”維新”立役者の言動を経営や企業人事になぞらえたり、自らの人生訓としたりなどの「おじさん的歴史観」に飽き足りない層は確実に育っている。
1000年前までさかのぼるとさすがに残されている史料は少ない。文字や絵巻の記録はあっても、当時の暮らしぶりの細かな点は想像で描写するしかない。当時開基と伝えられている寺社などの建造物もほとんどが江戸時代以降の再建で、現地を訪れても”時代の息遣い”オーラは近世以降よりはるかに弱い。しかしそれらの弱点は逆に「史実の軛」からある程度自由になることも意味している。武家社会時代を舞台とすると”女性の活躍”はごく一部の例外を除いて無理矢理感が漂うが、紫式部の時代ならば堂々と描ける。NHKはそこに目をつけたのだろう。
かくして、今年は「久しぶりに大河ドラマに触れてみる」ことに決定。実名さえ記録に残っていない紫式部の幼少期から成人するまでなんてドラマにできるの?とも思ったが、結果は既に放送されている。後の関白を”親の仇”とするとは、脚本家の胆力の強さに恐れ入った。紫式部の弟は学問が苦手で、教えていた父親を嘆かせたというエピソードも描かれていて、私は数十年ぶりかに懐かしく思い出した。
対して藤原道長は後世の徳川吉宗と似た生育ポジションで、最初からギラギラの権力志向者ではなく、のびのびとした人物として描くあたりは新鮮である。登場人物の現代風話し方もご愛嬌。武家社会時代の話し方は今でも結構伝わっているが、その前の貴族社会時代の話し方は細かい考証を反映させるとかえってわかりづらくなるだろう。
さらに、今はSNSがある。こちらからは発信しないが、様々な投稿を見て笑うひとときもまた”いとをかし”。知的ユーモアにあふれる人がこれほどたくさんいるとは、世の中まだまだ捨てたものでない。私のような”にわか”向けに丁寧に解説してくれる人もいて、鑑賞の心強い味方でもある。
「太平記」BS再放送の時は”判官殿”佐々木道誉がSNS一番人気だったが、今作「光る君へ」では藤原実資(藤原小野宮流当主。「小右記」に当時の貴族たちの様子を記録している)の存在感が早くも人気を集めている様子。”イケメン枠”では藤原公任が一歩リードか。
師貞親王(花山天皇)も”五十嵐君”(連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」に登場した若手大部屋俳優。鼻持ちならない態度でヒロインを翻弄した)を彷彿とさせる、とネタにされていて、大いに笑った。
NHKプラスクロスSHIBUYA
私は隔月で東急電鉄沿線の町へ出向く用事を有している。先日出かけた帰りに、しゅと犬くんも散歩していた「NHKプラスクロスSHIBUYA」で開催中の「光る君へ展」を見てみようと思い立った。この施設は渋谷駅近くの高層ビル内にあり、かつて神南の放送センター内にあった見学コースの一部代替という位置づけである。
渋谷はちょっと…いえかなり苦手。
再開発事業が本格化すると、超高層ビルだらけにして大丈夫なのだろうかと危ぶむ気持ちも手伝い、極力近づかないように心がけている。それでも年に一度は立ち寄る機会ができてしまう。
会場の入り口近くにはドラマの小道具数点が展示されている。紫式部の衣装、細かい絵を描いた貝合わせ用の貝殻など。どこの屋敷に置かれた何の道具か、解説を添えていただければありがたいのだが。
奥の部屋に進むと、出演俳優20数名のサイン色紙が並べられていた。(色紙は撮影不可)その中に
「香炉峰の雪いかならむ…」
と書いている人がいた。これも久々に思い出す語句で、「枕草子」の有名な一節である。
発言者は一条天皇の中宮、定子。女房として仕えていた清少納言は定子の美しい気品と知性にひと目惚れ、定子もまた清少納言の教養や機知を気に入り、厚い信頼を寄せていたという。お互い「インテリジェンスのレベルが合う人にようやく出会えた!」と感激した、と言うと大げさだろうか。”清少納言”の名は「清原(出身家)の少納言」という意味合いで、清少納言の身内縁者で実際に少納言職を拝命した人はいないという。定子が名付けた説を支持したい。ここで記されている雪の日のエピソードはそんな二人の息がぴったり合った、互いにとってとりわけ印象深いできごとだったのだろう。
清少納言が定子の望むところを的確に察知して御簾を上げたのは、唐の詩人白居易(白楽天)が詠んだ以下の詩に基づく。
この詩は817年、すなわち清少納言の時代から180年ほど前に作られている。科挙の最難関試験に合格してエリートコースを歩んでいた白居易が官僚たちの腐敗ぶりを告発する詩を次々詠んだことを咎められ、江州(江西省)に左遷された時の暮らしぶりを描写している。
言葉にする喜び
ここから想像。
清少納言はこの詩を読んで、中央政界を追われて隠遁の身となっても、どこか楽しそうな心持ちが伝わってくることに着目したのではないか。その背後には菅原道真や源高明の左遷事件が横たわっていると考える。
菅原道真が醍醐天皇の廃帝を画策しているという嫌疑をかけられ、筑紫大宰府へ左遷させられた”昌泰の変”は901年(清少納言の時代からおよそ90年前)。道真は大宰府で侘しい暮らしを強いられ、2年後に亡くなる。その後関係者や朝廷に次々と凶事が起こり、「菅公の祟り」として貴族たちに恐れられた。”天神様”信仰や、雷が鳴る際の「くわばらくわばら」は道真の無念が由来となっている。
その後、醍醐天皇の子・源高明もまた謀反の嫌疑をかけられ大宰府行きを命じられている(安和の変、969年)。
昌泰の変は清少納言の3世代くらい前の人たちの話。安和の変は幼い頃に起きた政変で、その関係者は清少納言が大人になった時代にもまだ数名が政権中心部にいた。「光る君へ」にも登場する藤原兼家(道長の父)も高明追放に関与したとされている。清少納言は「左遷とはかくも惨めなもの」と刷り込まれるように育ったことは想像に難くない。
それが白居易の詩を読んで「この人左遷されているのに、何この余裕!朝はゆっくり寝て鐘の音を聞いて、香炉峰に雪が降ったら簾を上げて眺めて、楽しそうじゃないの!」と新鮮な驚きを抱いたのではないだろうか。
周囲の男どもは出世に血道をあげていて、出世したらしたで道真や高明のように恨みを買い人生を棒に振るリスクを抱えている。親戚や同僚と表向き仲良くしていても油断ならない。邪魔な人物がなかなかどいてくれないと呪詛を始める。自分と顔を合わせる女官たちもまた、その価値観に振り回されている。
…大宰府行きを命じられた人はひもじさに苦しんだけれど、もしかして生活環境さえ整えられたら、鬱陶しい人間関係から離れて、田舎で風光を愛でる暮らしのほうが幸せなんじゃないの?「心泰(ゆた)かに身寧(やす)きは是帰処」(心が豊かで、身体が安らぐところこそ、すなわち帰る場所)とまで詠っているし!死んで極楽浄土に行くことを願わなくても十分そう!
白居易は”捲土重来”を期してこの生活を詩に残したのだろうが、清少納言は今でいう”リゾート感覚”のようなものに気づいたのではないだろうか。ゆえに定子が「香炉峰の雪いかならむ」と話しかけた際、パッとひらめいたと想像する。
清少納言は身の回りにある自然の風物や幼い子供の愛らしい仕草、日常の様々な出来事などに対して温かく細やかなまなざしを向けられる人だったのだろう。そういった小さな感動、定子に仕えるうちに経験した楽しい思い出、さらに”どこかずれている”大人に対する違和感を心赴くまま文字に残す才能に秀で、そこに生きる喜びを見い出せた人と思われる。そのインテリジェンスは幼い頃から様々な漢詩や和歌にふれることにより涵養されていったものだろう。漢詩や和歌では既に広く行われていたことを散文の形でより具体的に記すという発想は、日本初かどうかはわからないが、当時かなり珍しい試みであっただろう。清少納言は和歌にあまり自信がなかったらしく、それならば散文でと思いついたのだろうか。
一方、清少納言は同世代もしくはそれ以上の大人たちからは「自分には教養があると殊更にひけらかしている」など、あまり評判がよくなかった模様。晩年の老醜伝説や、後世の研究者の過小評価にもつながっている。「女は出過ぎず控えめであるべき」という価値観が長く社会を支配した影響がここにも表れている。
対面させるのだろうか
史実では、清少納言は紫式部と直接対面していないとされている。1001年1月(ユリウス暦。和暦では長保2年12月)に定子が亡くなると、清少納言は職を辞して宮中から去った。
紫式部が一条天皇の新たな中宮・彰子(道長の子)に女房として仕えるべく宮中に上がったのは5年後の1006年1月(ユリウス暦。和暦では寛弘2年12月)とされていることが根拠になっている。
直接の面識はなくとも、清少納言が書いた文章はしっかり残っている。紫式部はそれを読んで「とても偉そうにふるまっている割には中身がない」などと感じたという。既に亡くなっていた自らの夫、藤原宣孝の衣装の派手さまでネタにされているとなれば余計面白くなかっただろう。
現代に例えれば、松本隆氏が先輩にあたる阿久悠氏、北山修氏、「ブルー・シャトウ」「ブルーライト・ヨコハマ」などで知られる橋本淳氏などの作品を「あれではだめだ。詞とはいえない。」とこき下ろしたくなる心境に近いだろうか。もっとも紫式部は人づきあいをあまり好まず、彰子付き女房として白羽の矢が立てられた際にも「自分に務まるだろうか」としり込みした…と伝えられていて、今なお「ぼくが日本語のロックを作り、歌謡曲の流れを変えた」と自信満々に語る松本氏とは真逆の性格の持ち主だったらしい。松本氏はむしろ清少納言のほうに近いだろう。
松本氏の近著に記されている
は、「枕草子」の世界観にも通じる。
ちなみに松本氏と阿久氏は筒美京平氏の作曲家20周年記念パーティーで一度対面して軽く挨拶したのみ、北山氏は松本氏がはっぴいえんどの一員として出演したテレビ番組の司会で、やはり一度のみの対面だったという。
松本氏が阿久氏のことをかなり誤解しているように、紫式部は自分の思い込みで「清少納言は嫌な感じ」という心証を抱いている節がうかがえる。が、長い時の流れに洗われて二人の作品のみが残ると、紫式部と清少納言は常にセットで語られるようになる。
「光る君へ」でも、定子役と清少納言役は既にキャスティングが発表されている。それゆえのサイン色紙展示でもある。果たして史実通り紫式部とすれ違いとするか、それとも実際に対面して話をする場面を作るか、注目したい。「香炉峰の雪いかならむ」の場面は確実に作られるだろう。楽しみにしている。
大河はあけぼの
前述の通り20時台は入浴タイムなので、「光る君へ」は録画しておいて、翌朝目がさめたら布団に入ったまま見る習慣をこしらえた。のっけから衝撃的な展開あり、複雑な人間関係あり…正解だった。今の季節は録画を見ているうちに窓の外が”やうやう白くなりゆく”。小閣に衾を重ねているので暖かい。録画が終わると布団から出て朝食の用意を始める。難しい字や読み方の名前を持つ人物が多いので、見た後は本やWebサイトで読み方を確かめ、老いた頭に覚えさせる。
が。
私は蒸し暑い季節が絶望的に苦手。この頃猛暑日や熱帯夜は増える一方。暑い夜が延々と続くと窒息しそうで、”このまま気温が下がらず、人類は滅亡してしまうのではないか”と思い詰めるほどの「熱帯夜うつ」を発症している。さて、この先暑くなってきたらどうしようか。
第3回着目ポイント
「光る君へ」第3回で、幼い定子が登場。叔父・道長と追っかけっこをしていて転ぶ。道長が手を貸そうとすると母・高階貴子がこれを制して、定子に自力で起きるように命じる。定子が立つとほめる。
「何にも動じぬ強い心を養わねば、帝の妃にはなれませぬ。」
さりげなく挿入されている一見ほのぼのエピソードだが、定子は生まれた時から父母によって生涯のコースをがっちり敷かれた人だと視聴者に知らしめる場面でもある。
定子はこの母のもとで教養のみならず、やがて清少納言がぞっこんほれ込む自立心や才覚を身につけていったとうかがえる。一方、「親王様が即位されたら定子を入内させるつもり」と聞いた道長は「えっ、今からそんな話?」という表情を浮かべかけて、すぐに目を伏せる。やがて自分が政権を掌握して、幼い娘を早く入内させようと躍起になるなどとは夢にも思っていなかった若き日の道長のピュアな優しさを示す場面でもあった。
一方土御門殿(左大臣・源雅信宅)では22歳になる姫の倫子(ともこ)が琴を弾いている。雅信は倫子の琴に耳を傾け、わが家は宇多の帝の家柄だし焦る必要はないと鷹揚に構えている。対して妻・藤原穆子(むつこ)は「そんなに甘くはありませんわよ」とたしなめる。「この土御門殿に、殿が婿入りなさったのも、私が二十歳の頃でしたもの。」
”たとえあなたが狼のような御方に変わろうとも、何を恐れることがありましょうか”という歌でも詠んだのかな、と思わせる。(このネタがわかる人はいるだろうか。)婿を取ってみたら思いのほか優しい夫で、右大臣家のようにガツガツするところもなく平穏で幸せな結婚生活を送ってきたのだから、娘にも…と思っていたのだろう。それはともかく、左大臣家はおおらかな教育方針で、倫子はその両親のもとで明るくのびのびとしたお姫様に育ったと示している。
紫式部が父・藤原為時の指示により土御門殿を訪れ、上流階級の姫たちに交じって”偏つぎ”ゲームに参加、札をほとんど取って圧勝したとき、倫子は
「まひろさん(紫式部)は漢字がお得意なのね」
と屈託のない笑顔を見せていた。これは近現代の京都人にありがちな遠回しの嫌味というより(SNSではそこを心配して”恐怖の女子会”と盛り上がる人が結構いた模様)、「身分の低いお家に、こんなにできる子がいるなんて!」という率直な驚きだろう。やや不満そうな顔をしていた同席の姫たちと対比させて、格の違いを見せる演出だった。それにしても「詩」→「欲」→「敗」の流れで映すとは、撮影スタッフもまた、なかなかの曲者揃い。
帰宅したまひろは父の思惑(左大臣家の様子を探って参れ、姫君は東宮・師貞親王に入内してもおかしくないゆえ)を知って怒っていたが、その後も”恐怖の女子会”参加を続け、倫子のしぐさを覚えてきて従者を慌てさせる。父は父、自分は自分と割り切って楽しもうと気持ちを切り替えたのだろうが、和歌についても赤染衛門にひけを取らない知識があると知れると同席の姫たちが顔色を失う。紫式部は後年宮中で、他の女房たちの嫉妬がうるさいので、学識をあえてひけらかさないよう心掛けていたと伝わるが、その伏線にもなっているだろうか。