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『わが動物記』犬飼哲夫

以前書いた利尻島旅行の記事で、1930年代に野ネズミ退治のためにイタチを持ってきて放し、効果をあげたというエピソードに言及した。

『暮しの手帖』バックナンバーを改めてひもとき、その原典となる記事を確認した。イタチにネズミを駆除してもらう作戦を鬼脇村に伝授した、北海道大学農学部教授・犬飼哲夫氏(1897-1989)の『わが動物記』である。1966年9月発行の第1世紀85号から翌1967年5月発行の第89号まで、5回にわたり連載された。イタチの話は最終回の第89号に掲載されている。

この記事は、暮しの手帖社編集部が録音機材を用意して、犬飼教授に話してもらい、それを文字に起こす形式である。今回調べたところ、1970年に暮しの手帖社で単行本化したが、後年の再版や復刻は行われていない模様。今や幻の記録である。


”環オホーツク海”の動物たち

この連載で取り上げられている動物を以下にあげる。

・アザラシ
・トド
・ラッコ
・オットセイ
・ロッペン鳥(ウミガラス)
・クマ
・シカ
・オオカミ
・トナカイ
・黒テン
・リス
・タヌキ
・キツネ
・ネズミ
・白鳥

犬飼教授は1920年代から1930年代にかけて、北海道および日本の施政権が機能していた樺太・千島地方でフィールドワークを重ねた。これらの動物は”環オホーツク海”圏内で、教授が実際に観察して、時に触れた生き物である。

教授の語り口は明快で、話の内容がとても面白い。文章を読むだけで、おおよその情景が頭に浮かぶ。科学者としての冷静なまなざしと、地元のアイヌや動物たちに対する温かな愛情が重なり合っている。

一方、現代の野生動物紹介コンテンツ(テレビ番組・映画・Web配信など)では決して取り上げられないであろう、「北の生き物のリアル」も詳しく語られている。

テンのためなら国境も越える

犬飼教授の話には、動物の毛皮がよく出てくる。今よりも寒冷な気候で、電力やガスを使った暖房装置がまだなく、暖められた空気を効率的に保温する建築技術もなかった時代、毛皮は生活必需品のひとつだったのだろう。樺太に生息している黒テン捕りの話は、様々な意味で面白い。

黒テンの毛皮は質がよく、1930年代は国際的にも高値で取引されていた。狩猟は冬が適している。樺太島の日本側では保護のため禁猟にしているが、ソ連側は規制がない。そこで、国境を越えて黒テンを捕ってくる職業ができる。

彼らは敷香(しきか)や本斗(ほんと)に暮らしていて、夏は何もしない。博打などで遊んでいる。秋になると出動。嵐の夜、トナカイに乗って北へ。国境線では日本側もソ連側も警備兵が常駐しているが、その目さえごまかせたら、あとはやり放題。国境の北4kmあたりを根城にして、炊事や鉄砲で物音や煙を出さないように気をつけながら、罠をかけて黒テンを捕る。毛皮を取って日本に持ち帰ると相当な高値で売れるので、それで年間の生計を立てる。2人組だと黒テン毛皮の利益を独占しようと、相棒が裏切って殺される恐れがあるので、単独行動か、3人以上のグループで行く。

当時の樺太島の日本側は開拓地として農業、漁業、林業、工業と有効活用していたが、ソ連側はほぼ放置だったので、こういうことが起きる。密猟はもちろん法律違反で、このケースでは国際問題にもなるところだろうが、犬飼教授は法律や役人に対しても一歩引いた目線で語っている。

大山伐採、ネズミ百万匹

犬飼教授は樺太島南西部の能登呂半島でも、ネズミ捕りを大規模に行っている。

1939年春。能登呂半島でドブネズミが大量発生して、地元の人が収穫した農作物や魚介類、昆布に至るまで片っ端から食い荒らし、生活できなくなるほど深刻な被害が出た。樺太庁から駆除を依頼された犬飼教授は、地元の人に向けて「ネズミを捕ったら、シッポを1銭で買い取る」と広告を出したところ、10,000円の予算を使い切ったという。すなわち、100万匹のネズミがいたことになる。ネズミの皮は札幌・小樽の毛皮商に1匹13銭で買い取ってもらい、その収益を地元の人への補償にあてたという。

ドブネズミはもともと、この地域にはほとんど生息していなかった。なぜ繁殖したか。

原因は森林の大規模伐採である。1923年に発生した関東大震災復興事業として大量の木材が必要になり、能登呂半島の山の木を全て切ってしまった。山肌に直接陽光があたるようになり、代わって笹が育った。笹は1938年に花を咲かせ、秋に多数の実をつけた。ネズミはそれを餌として、一気に数を増やした。ネズミは笹と雪の下で越冬して、翌春笹の実を食べ尽くしたところで、新たな餌を求めて人里までやってきた。

このケースは、人間の都合により短時間で生態系のバランスを崩した結果とみなせるだろう。現代の都市に潜むドブネズミ問題にも通じるものがある。

犬飼教授はドブネズミに関して「食べ物を蓄える習性はないから、餌で釣れる」と述べ、野ネズミよりは駆除が楽としているが、現代の都市に生息するドブネズミは結構知恵をつけている。1cm程度の穴でも通り抜け、毒餌や粘着シートを置いても、学習によりそれを回避して暴れ回る。ネズミも進化するのか。

アザラシの海水煮

オホーツク海沿岸から千島にかけては、アザラシ・トド・オットセイ・ラッコなど、海棲哺乳類が広く繁殖している。連載第1回では、これらの動物の姿が生き生きと語られている。

アザラシは皮下脂質の酸化が早いので、捕獲したら食べるにせよ、毛皮を取るにせよ、とにかくスピード勝負。流氷の上で海水を火にかけて、沸騰したら肉を投入して煮込み、すぐにいただく。陸地まで持っていくと、その時間でたちまち変質して、食べられなくなる。天然の塩煮込みで、ミネラルも十分あるのだろう。熱湯に通すことで殺菌も兼ねていると思われる。原始的なようで、結構理にかなっている。

犬飼教授によれば、陸の動物ではトナカイ、海の動物ではトドの肉が一番おいしいという。トド肉はアザラシと異なり保存が効くので、戦時中食糧が不足した際にはトド肉の缶詰を作り、札幌の三越で販売したと語る。

トドの皮はとても丈夫で、ロープや締め具に最適という。芸達者なので、動物園のニーズもある。鳴き声がうるさいが、灯台があまりなかった時代は霧笛代わりとして重宝された。その一方で漁師が捕った魚を食べ、網を破壊するので、あまり増えすぎても困る。千島の施政権が機能していた頃はアイヌや日本人の狩猟でトド数をコントロールしていたが、ソ連の人はトドを捕る習慣を持っていないので、千島がソ連に占領されるとトドが増えすぎて、北海道までやってくるようになったという。

人類もまた、この地域の生態系の一翼を担っていた。戦争という人為的な都合により、そのバランスが崩れた一例と受け止めた。

鹿と塩分

北海道の内陸部には「鹿」がつく地名がいくつかある。東鹿越、鹿討など駅名にもなっている。かつてこの地域に住むアイヌが、鹿肉を主食としたことに由来する。雪が降り始めると、降雪量の多い日本海側にいる鹿は石狩川をさかのぼり、山脈の一番低い峠を越えて、雪が少ない太平洋側の十勝に向かう。鹿が越える道だから「鹿越」である。アイヌは円形の柵を作り、犬を使って鹿をおびき寄せ、柵の中に入れて仕留める。その場所が「鹿追」である。中富良野町の鹿討も、同じような由来を持っているだろうか。

鹿を捕ったら煮て、燻製にして食べる。アイヌは鹿の血液から塩分を摂取できていたので、塩は必要ではなかった。しかし農耕を始め、日本人とのつきあいができて、大雪で鹿が多数死んだことを機に狩猟をやめると塩分不足になり、日本人が持ってきた塩とアイヌ文化圏の産物を交換するようになったという。ひと口にアイヌというが、山間の部族と海辺の部族では、暮らしぶりもかなり異なっていただろう。

熊のひとつ覚え

連載第2回は、丸ごと熊の話にあてている。1960年代にも千歳、北見、猿払などで熊が人里まで来て、人にケガをさせたり死なせたりで大騒ぎになったという。熊退治はとても難しく、アイヌ猟師とアイヌ犬の技術に及ぶものはないという。アイヌは熊を「神の使者」と考えていた。カムイ(神)が熊を人間に討ってもらうために下ろしてきたから、人間は熊を討ち、その魂を神に返す、と信じていた。アイヌは平安貴族と同様に夢合わせをやり、よい夢を見ると熊を捕りに出かける。悪い夢だと家に留まり身を清める。

一方、現実の熊を観察すると、最初に食べた動物の味を覚えたら、同じ手口でその動物だけを狙ってくるという。ゆえに馬が食べられたら、馬が集中的に狙われる。人間が食べられたら、たちまち集落有事となる。熊のひとつ覚えである。熊にとっても人間は恐ろしい存在なので、慣れると共存可能だが、慣れていない人が余計なことをするとかえって興奮させて、襲われるという。

犬飼教授は現地の人に誠意をもって接していたようで、たくさんの人の信頼を得ていた。新得で、人里にいるよりも山でリスを捕るほうがずっと好きだからと、村人の説得も聞かず山ごもりをしている猟師も、教授には心を開く。上士幌で出会って親しくなったアイヌは、病に倒れて最後に教授と会った時に「俺は、もう5日は持たん。自分でわかる。旦那は正直だから、これからウタリ(仲間)の誰にも教えていない熊よけのまじないを教える。」と言い、おまじないを教授に伝える。連載の中で最も胸打たれる話である。誠意と信頼は、どの時代でもどこの環境でも、社会の基本なのだろう。それは熊に対する時も同じである。

真の”愛護”とは

この連載記事に対して抱いた感想は主に3つ。

(1)樺太や千島は、やはり日本であってほしかった。そこにいる動物たちのためにも。

今でこそロシアはサハリン島北部の資源開発を熱心にやっているが、領土を拡張しても放置していた時代が長く続いた。日露戦争前は、本土の囚人が送られる島として使われていたという。

対して日本は、前述したように土地を有効活用していた。まだ電力が普及する前という時代背景もあるが、それと意識せずに動物の生態系を浸食せず、上手に生かす暮らしを組み立てていた。犬飼教授は「日本本土流」を押し付けず、現地の人たちのあり方をそのまま尊重しつつ、研究を進めた。

”環オホーツク海”の観点から考えても、この地域は日本の管轄がふさわしいと思う。戦争中の報道や記録類を見ても、昨今の情勢を見ても、南方の島にいちいち目くじらを立てる人が多い割には、北方にあまり社会的関心が向いていないように感じられる。帝国政府は西日本の勢力が中心となって結成されたもので、東北以北を一段低くみなす姿勢が底流をなしているのだろうか。第二次世界大戦の結末は、そのツケが回ってきたようにも思える。利尻昆布は讃岐うどんのだしにも使われているし、食糧生産の観点からも、もっと道北・オホーツク地域にスポットライトが当たってもよいと思う。宗谷本線すら息も絶え絶えの現状は、あまりにも寂しい。

(2)法律や国境は、あくまでも人間の都合で作られたものであり、絶対的なものではない。

犬飼教授の話には、密猟者がよく出てくる。前述した、樺太の黒テン捕り猟師や、新得の山ごもり人がやっていることは法律に反する。しかし、教授は彼らを全く非難しない。むしろ逆に、研究活動・動物保護活動にとって必要不可欠な、生の情報を提供してくれる存在として、敬意を払う。逆に、役人の融通の利かなさや尊大な態度に対しては厳しい。

まだ、コンプライアンスなどという言葉ができるよりはるかに前の話であるが、犬飼教授のスタンスは今の時代に、改めて着目してもよいだろう。

法律による統治、すなわち「法治主義」は人類が編み出した優秀なシステムであるが、万能ではない。動物や自然を、人間の生み出したルールに全て従わせることはできない。法律はあくまでも安全に、そして豊かに社会生活を送るための”手段”であり、”目的”ではない。法律に従わせることは大切ではあるが、人間が作るものである以上、自ずと限界があることは忘れないでほしい。

(3)「動物愛護」=「命を守る」ではない

連載を通読して最も強く感じたことである。
現代のメディアが発信する野生動物コンテンツは、見た目の可愛らしさや愛嬌を前面に出して、ことさらにクローズアップする方針が基本である。その上で、「私たちと同じように命あるものだから、その命を大切に」というメッセージを発する。様々な動物が愛玩的なキャラクターとして描かれる。

対して、この連載記事のように野生動物のリアルを伝え、銃や罠で動物を仕留め、その肉を食べ、毛皮を取り…などの話は人気がない。「野蛮!」「虐待!」「不潔!」と、顔をしかめる人も少なくないだろう。暮しの手帖社がこの記事の単行本を再版しなかったのも、既に時代と合わなくなっているという判断が働いているだろうか。

日本人に限らず、欧州などの動物保護活動家たちにも言えることだが、現代人は「動物愛護とは、動物の命を守ること」という意識に引きずられ過ぎていないだろうか。

もちろん人間の都合で乱獲して、絶滅寸前まで追い込んでしまうことは戒められるべきである。その一方で、命を守るということは過剰繁殖につながり、かえって生態系や、ひいては私たちの暮らしに脅威を与えるということも、同じように戒められてほしい。

ここ数年、熊が地方の市街地近くまでやってきて、住民をパニックに陥れる事件の報道が増えてきた。スーパーマーケットに1日居座り、商品を餌にした事例もある。この種の事件が報道されるたび、捕獲にあたった人を「かわいそうだ!」と非難する人が少なからず現れ、地元の人を苛立たせているという。

熊は「キャラクターとしての愛玩性」と「実際の獰猛性」の乖離が最も大きい動物であろう。テディベア、プーさん、くまモン…可愛らしい熊キャラクターは過剰なほど世にあふれている。現代人は本当の熊を知らないまま、せいぜい動物園で飼いならされた姿しか見ないまま、イメージだけを膨らませる。そこに「動物愛護とは、まず命を守ること」という固定観念が加わり、無責任な放言を行う。

アイヌが熊を「神の使い」とみなしていたこと。
私たちの先祖は、適当なタイミングで動物の命を取り、その恵みをいただいて、生態系のバランス保全に貢献していたこと。これらについて改めて真摯に向き合う姿勢こそが、真の動物愛護精神ではないだろうか。

動物愛護は、ただその命を守ることではない。


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