宮脇俊三『平安鎌倉史紀行』
宮脇俊三氏は1980年代後半から1990年代にかけて”日本通史の旅”という企画を手掛けている。日本史に登場する事件や主要人物ゆかりの地に出かけ、現状を見たままにレポートする。講談社の雑誌「小説現代」に連載され、ある程度まとまると同社より単行本化された。
記録によると「魏志倭人伝」ゆかりの史跡を目指して対馬へ出かけたのを皮切りに、13年かけて関ヶ原合戦(1600年)まで進めたが、宮脇氏の体力が衰え、そこで打ち切られた。
「平安鎌倉史紀行」はその真ん中、平安時代・鎌倉時代ゆかりの史跡を巡る旅をまとめた著作である。取材時期は1990年から1994年にかけて。”平成”の初期で、阪神淡路震災の前にあたる。
この本は自分で購入したものではない。今は年老いた父の書棚に初版本があり、あら?と思いつつ手に取り、読み進めた。歴史上の著名人はもちろん、日本史の教科書や学習マンガ以来数十年ぶりに見る名前、初めて知る名前が続々登場する。私が旅した日の約半月後に宮脇氏が同じ場所を訪れていたり、当時の通勤ルートの反対方向の電車に宮脇氏が乗車されていて、通勤時間におそらくすれ違っていたりなど、意外と私の近くで活動していたことまでわかる。
京都往来+α
宮脇氏は770年の称徳天皇退位・白壁王(光仁天皇)即位から話を始める。なぜそこからかというと、この時皇太子に立てられた山部親王が後に即位して(桓武天皇)、長岡京そして平安京を開いたからである。その背後には藤原氏の意向が働いていたという。すなわち、藤原摂関家による政治支配体制の礎を意識したためだろう。
平安・鎌倉時代の史跡の多くはもちろん京都にある。旅の目的地も必然的に京都が多くなる。鉄道以外を目的とした旅なので、当時の出張会社員などと同様に、新幹線「ひかり」(「のぞみ」は雑誌連載途中にできているが、まだ本数は少なかった)でごく普通に旅立つ。時刻表熟読の末に独特の行程を立ててそれを実行する宮脇氏の得意技はあまり発揮されないが、それでも最後まで続けていたのは出版社に対する誠実な使命感もさることながら、この仕事がお好きだったがゆえだろう。
宮脇氏は極力、日本史に残る事件が起きた年代順に回ろうとする。そのルールゆえ、京都には幾度も足を運ぶ。異なる時代のエピソードが複数伝わる場所はその都度訪れる。海外観光客のオーバーツーリズムが問題になるはるか前で、「そうだ京都行こう」のキャンペーンもまだなかったが、当時から京都のホテルは取りづらく、宮脇氏は京都を見てから新幹線で岡山や福山などに行き、そこで宿泊するという方法を取る。慣れた人ならば”常識のうち”だが、新鮮に感じる読者もいただろうか。
宮脇氏は目的地の主要駅から史跡まで向かう、今で言う”二次交通”もなるべく公共交通機関を使いたいとしているが、往々にして不便なところにあり、タクシーをしばしば使う。バブル崩壊直後だが、まだ余裕のある時代で、出版社も経費として出してくれたのだろうか。各地の運転手の反応が様々で、彼らの様子を通じて、その土地に今暮らす人たちの史跡に対するスタンスが透けて見える。
インターネット普及前夜で、Googleマップはもちろんまだない。国土地理院の1/25,000地形図を頼りとするが、地図と現況が相違していたり、思わぬ発見があったり。「旅に出るよりも史料に当たれ」と繰り返し書いているが、その教えの+αを上手に引き出している。
宮脇氏はマイナーな史跡のみならず、取材に乗じて時代祭や葵祭など京都の有名なお祭りもしっかり見る。王朝文学にはあまり関心がなかったようだが、時代祭で清少納言と紫式部が仲良く山車に乗る様子を見て
「仲が悪かった二人だから、苦笑させられるが、それもまた楽しい。」
と評している。
地方史・仏教史
京都や鎌倉周辺だけでは単調になるからという事情もあるだろうが、宮脇氏は伊豆・横手・平泉・須磨・讃岐・伊万里などにも出かけている。全国版の日本史に登場するほどのレベルの人物を通じてとはいえ、地方の歴史や仏教の歴史にも光を当てようとしている。地方で取材する回は、宮脇氏の筆致がひときわ冴える。
平将門は今でも有名だが、その史跡は茨城県筑波山近辺の農村に点在している。東京に近いからと手抜きすることなく丹念に回る。対して藤原純友は私自身数十年ぶりに目にする名前。今の知名度はどれほどだろうか。純友が本拠を置いた愛媛県宇和島沖の日振島紀行は宮脇氏ならではの描写が光る。滅多に行ける場所ではないので、海外旅行記に近い印象さえ受ける。
平清盛ゆかりの音戸の瀬戸や厳島神社は私もよく知っている場所だが、雨あがりに訪れた体験記は宮脇文学の真骨頂であろう。
そして東北地方。坂上田村麻呂の東征に始まり、前九年・後三年合戦、奥州藤原氏が開いた平泉の都と、丁寧に解説されていて読み応えがある。昔の歴史マンガや教科書では今ひとつピンと来なかったところまで勉強しなおせた感がする。地元の人にとって、源義家は「外から来てかき回して行った人」であり、源義経は「鎌倉方に攻め込む口実を与えた人」に過ぎない。
仏教史では何と言っても空海。単なる”仏教オタク”にはならず、遣唐使で長安に行くと広く関心を持って様々な分野について学び、帰国すると土木技術の基礎に相当する知識を用いて、故郷讃岐に満濃池ダムを築いたという話は、香川県に思い入れの深い宮脇氏にとっても自慢だろう。空海の故郷は古くから海岸寺とされているが、途中で善通寺が割り込んできたという。
優しいまなざし
宮脇氏は桓武天皇、源頼朝など歴史上の勝者に対する敬意も忘れないが、それ以上に敗れた人、不利な状況に追いやられた人に対して常に優しいまなざしを注いでいる。安徳天皇など周囲の思惑で命を終えさせられた人や、畠山重忠など他者を信じてそのために行動して、それ故に命を落とした人には、ひときわ温かく寄り添う。奥州藤原氏では、秀衡よりも子供の頃殺されそうな目に遭いながらもしぶとく生き残り、平泉の都を開いた苦労人の清衡のほうに着目する。宮脇氏の作品が多くの人に愛された源泉を見る思いがする。
一方、源義経に関しては”判官びいき”に陥らないよう、慎重に筆を運んでいる。「平家物語」の記述によれば、摂津渡辺津(大阪市)から阿波まで、淡路島の東側に沿って4時間程度で船を進めたという。強い北風に乗ったとはいえ、当時の小船で宮崎カーフェリー・南海フェリー並みの速度を出すとは無茶にも程がある。明石海峡大橋開通前の取材で、神戸-徳島間に阪急汽船の高速艇が就航していて、宮脇氏はそれに乗船して往時を偲ぶ。結構揺れたそうで、読んでいると現在の讃岐うどん名店めぐりは明石海峡大橋の完成により定着したものと、改めて思う。
下関壇ノ浦の最終決戦でも義経軍は潮目を巧みに読んだが、後年頼朝の信を失うと、西国で体勢を立て直すべく大坂から船を出しても兵庫県尼崎市の大物(だいもつ)沖であっさり難破したというから不思議である。多分専門家がしっかり研究しているだろうが、義経軍には気象変化を巧みに読める参謀がいて、壇ノ浦合戦後何らかの理由でそれを失ったとも想像できる。
花山院熊野行幸
熊野古道(中辺路)と熊野本宮大社についても一章が割かれている。後白河法皇・後鳥羽上皇らが幾度も参詣したことで知られているが、皇位経験者で最初に行った人は宇多法皇(907年)で、次が花山法皇(987年)という。そう、ドラマ「光る君へ」で暴れまくっている?あの花山帝である。
五十嵐…もとい本郷奏多さん曰く「子供のまま即位した、かわいそうな人」。退位後もしばらくあちら方面の逸話には事欠かなかったようだが、ある時期から修行に励むようになり、熊野行幸はその一環だったという。
中辺路には箸折峠、近露(ちかつゆ)という地名がある。花山院が弁当を食べようとしたところ、箸を忘れたと気づき、近くにあった柴で代用しようと折ったところ、赤い液体がにじみ出た。「これは血か露か」というご下問があったことによるという。胸に去来するものがあっただろうか。
花山院は普段ふざけてばかりで、女性を物としか見ない冷たさもある一方、一度やると決めたら情熱を傾ける人だったのだろう。その一面はドラマでも描かれている。だから秋山実資さん、後年の熊野詣でに免じて許してあげてほしい。
ドラマ「太平記」の影
本書の最後は鎌倉幕府末期を取り上げている。笠置山・千早城・栃木県足利市・群馬県新田郡新田町・東京都府中市分倍河原とめぐり、現代人には片岡鶴太郎さんの顔で記憶されている(?)鎌倉市の東勝寺跡・北条高時腹切りやぐらで締めくくられている。宮脇氏の取材はドラマ「太平記」放送から3年過ぎた1994年で、足利尊氏や新田義貞の真新しい像に好感を抱き、楠木氏ゆかりの千早赤阪村も含め、地元の人が郷土の歴史継承に力を入れる様子を高く評価している。「はじめに偏見ありき」の時代を思い切って取り上げ、出演者の熱演で盛り上げたドラマ「太平記」は、まさしくエポックメイキングだった。軽々しい気持ちでドラマ化できる時代ではないので、他の俳優が演じる機会はほとんどない。従って専門の研究者もフランキー堺さんや陣内孝則さんの顔で覚えるほどになっている。その意味でも貴重な作品だろう。
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