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『グレート・ギャツビー』
『グレート・ギャツビー』
スコット・フィッツジェルランド
村上春樹 訳
中央公論新社
「僕」の隣に住むうさんくさい金持ちの青年グレート・ギャツビーの恋の話。
日本語が変だと思うけど、読んでいて感じたのは「圧倒的な孤独」。早く読み切ってしまわないとその孤独に引きずり込まれそうになるので、一気に読み終えた。
どうしてここまで引きずられるんだろうと思ったけれど、それはこの物語が今の日本を舞台にしているって言われても不思議じゃないくらい身近に感じたからだと思う。
それについてはあとがきで村上春樹が、現代の物語として感じてもらえるよう翻訳することを「最優先事項」にしたと記してあるので、そのおかげかなとも思うが、それにしても、この物語の舞台は1922年、執筆時は1924年で今から100年も前である。
それなのに、この寂しさはなんだろう。100年経って、いろんなものが進化を遂げたのに、結局人は寂しさからは逃れられないということが証明されてしまったみたいだ。
それから、本筋とは関係ないけれど私、西洋に生まれなくてよかったな、とつくづく思う。パーティ、無理すぎる。
初対面の人とそつなく話すことなんてできないし、顔見知りのよく知らない人に話しかける勇気もないし、知ってる人と知らない人が混在しているグループに参加していく方法も分からない。
ひとりで食べ続けることも自意識が邪魔しそうだし、時間のつぶし方も思いつかない。かといって招待されたパーティを断ることもできないだろう。そして何時頃に行くのが正解なのか延々考えてしまいそうである。
パーティ文化がなくてよかったとつくづく思わされた。