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『はつ恋』

『はつ恋』
ツルネーゲフ
神西 清 訳
新潮文庫

ある晩、主人は客にめいめい自分の初恋話をするように言う。ヴラジーミル・ペトローヴィチは一旦は断るが断り切れない。話すのが不得手なので……と、手帳に初恋のことを書いて改めて読んで聞かせることになる。二週間後、再び集まった三人。手帳に書かれていたのは、彼が十六歳の時の夏の日々の出来事であった……

というお話。
初恋だからうぶなかわいらしいいじましいようなお話かと思ったら全然違う。ドSで気分屋のお嬢様に振り回される男たちの話だった。……うーん、それも…ちがう……か?一言で言っちゃえば、まあそういう話ではあるんだけど、そういう話じゃなかったな、なんか。

それにしても、人の初恋話を聞くのってなんでこんなに楽しいんでしょうね?恋バナはなんであれもちろん楽しい。でも初恋は一層楽しい。なぜならそこには計算も経験も入り込めないからじゃないかと私は思う。

わたしの「情熱」は、その日から始まった。忘れもしない、――その時、わたしは、初めて就職した人が感じるはずの、あの一種の気持と同じものを味わった。つまりわたしは、もはやただの子供でも少年でもなくて、恋する人になったのだ。(P50)

『はつ恋』

ねええ!!!!もうかわいくないですか????「恋する人になった」んですよ!「恋する人」に!!!!もうここ悶絶しました、私!!!もう今時の十六歳の男の子はこんなこと思わないんだろうな~

でもこれ、こわいことに、四十がらみのおじさんが当時のことを思い出して書いてるんですよね。十六の時の心情がまるで冷凍保存されていたかのように新鮮に書かれているんですよ。

心情だけじゃない。当時の状況や情景そういったものがもう今目の前に広がっている光景をそのまま写生したかのように描かれている。これをたった二週間で書き上げたんですよ??しかも結構な分量。怖くないですか?

そもそも、飲んだ後のおじさん三人のちょっとした暇つぶしみたいなもののはずだったのに、わざわざ紙に書いて別日に読んで発表しようとする。いや、怖くない???

十六歳の時の恋愛が怖いくらいにきれいな言葉で書かれてあるのを読むごとにその怖さがひたひたと胸に迫ってくる。

そして、ふとタイトルのことを思う。『はつ恋』。これ、Wikipedeaで調べた限り、この作品は11人の方が翻訳されているけれど神西清さん以外はみな『初恋』って翻訳してるんですよね。

私もこれは『はつ恋』かな、と思った。神西清さんの見解とはもちろん違うと思うけれど。「初」にはどうしても、最初の、一番目のって意味が付いてきちゃうと思う。でも彼にとってこの恋ははじめての恋であると同時に唯一の恋であったように思う。

この『はつ恋』はツルネーゲフの半自伝的小説と言われているらしい。神西清さんの巻末の解説によるとツルネーゲフの両親も今作のように、「気丈でヒステリックで野性的な」母親と「冷やかで、弱気で優柔で、おまけに頗る女好きな伊達者の」父親であったらしい。そして、ツルネーゲフも生涯独身を貫いた。

作品を通してみても、この主人公の父親への崇拝ぶりはどこか奇妙に感じられる。幼いはじめての恋を語りながら、四十の男が今なお父親を追い求めているような薄気味悪さを感じるのである。

それがよりいっそう彼の“はつ恋”を神聖なものにしているのかもしれない。

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