ヨーロッパ近代哲学
テーマ:ドイツ観念論から実存哲学へ
はじめに
カントから始まりヘーゲルで完成されたドイツ観念論からショーペンハウアー、キルケゴール、ニーチェなどの実存哲学へと変化していく。この変化は後期シェリングが「観念論つまり思考によって存在をとらえることはできない。」と考察したように認識つまり本質をとらえることだけではとらえられないなにものかがあるという意識から生まれたものである。では、認識でとらえられないものとは一体どのようなものか。存在を把握しようとすることで新しく見えてくるものはどのようなものか。ドイツ観念論での存在と、その後の実存哲学での存在論の違いから読み解いていきたい。
カントの存在論
カント哲学は観念論ではあるが主体的な観念論ではない。主体的な観念論とは自らが感じるからあるというただ主観のみに基づいたものであり、客観的妥当性がないものを客観的に妥当するものだとすることである。カントの観念論は自らが考えるだけではなく直観が必要であるとするものである。つまり自らが自発的に思考することで把握されるものではなく外部から直観することで初めて把握が可能になるということである。よって自己についても、デカルトの「われ思うゆえに、我在り。」のように自己の内部の経験のみが直接に経験できるもので外部の現実存在についてはそこから推測できるのみであるという自己の内部の経験が外部の現実存在の原因となる(しかしこれも推測に過ぎない)とするものではなく、『純粋理性批判』の第二版においてカントは、
・・・外的な事物についての経験こそがほんらいの意味で直接的なものであり、この外的な事物の経験を媒介にしなければ、内的な経験は不可能であるということである[1]。・・・
と述べているように、自己の内部の存在は外的な経験を媒介にしなければ認識できないものである。このようにカントにおける自己の現実存在は外的な直観に基づいて規定されているものである。
ショーペンハウアーの存在論
ショーペンハウアーの哲学は、世界は私の表象と意思であるとする哲学で、表象から出発し、主観、客観に区物される。表象とは、我々が世界を眺めるとき、我々に現れるもので、我々はこの表象によってしか世界を認識することはできない。よって、カントの物自体という実在をみとめない。よって、客観を認識するものとして主観がとらえられる。表象として存在するものは認識するものにとって存在するものであるため、主観は客観を成り立たせる条件である。この表象は概念である抽象的な表象と肉眼で見える世界の全体、もしくは経験の総体のことである、直観的な表象に区別できる。
・・・この抽象的な表象が、直観的な表象に関係をもつことによってのみ内容と価値をかちとるのであって、この関係がなければ、価値も内容もなくなるであろうとする限りであった[2]。・・・
ここから読み取れるのは反省の世界、理性の抽象的で論証的な世界である、抽象的な表象に内容と価値をもたらすことができるのは直観的な表象である実在の外界であるということである。ショーペンハウアーは世界を表象としてとらえることでカントの物自体という概念を取り払ったが、カントの直観に規定される自己に見られるような外的な実在とのつながりを認めている。つまり、ショーペンハウアーの哲学における主観の抽象的な表象を規定するのは直観的な表象であるとするもので、カントの直観による自己の規定とあまり変わりないように感じる。しかし、ショーペンハウアーは世界にはもう一つの側面である意志が存在するという。よって、ショーペンハウアーの主観が規定されるものにもう一つ意志というものが加わる。この意志について、ショーペンハウアーは
・・・認識主観には謎の言葉が与えられているのである。この言葉はすなわち意志と呼ばれる。この言葉が(中略)彼に自分自身の現象を解く鍵を与えている。彼に対し彼の本質、行為、運動の意義を明らかにし、それらの内的な機構を示してくれている[3]。・・・
とし、さらに、意志を物自体でそのものとしては客観ではないものであり、非合理的で衝動的で目標、限界もないものである。その意志が目に見えるようになったものが身体であり、表象であり、客観であるとする。このような、直接に認識できないものであり、世界すべてに力を及ぼす意志はカントにはないものである。では、なぜこのようなものを想定せざるを得ないのか。
カントにおける自己は直観に基づいて規定されているのみであり、そこに規則つまり、自己を規定する、自己の活動を決定するものを持ちだすのは道徳の問題のみである。よって、カントにおいて自己は認識と道徳以外に規定するものはないため、自由であり、道徳が理性的に規定されたものであれば、道徳に従わないことを意志するものはない。このように、カントの哲学では自己の理性の欲求は、アリストテレスと同じように、真理とは認識がその対象と一致することである真理を求めるものだけである。しかし、現実の存在者はショーペンハウアーが指摘するような意志すなわち欲求を持つ存在である。認識についても、
・・・認識はまた、意志の客観かの高位の段階の本質に属していて、身体の各器官と同じように、個体及び種を維持するための単なる道具であり、手段なのである[4]。・・・
としているように、認識は意志から自由であるように見えても、実際は意志に奉仕し、意志の目的を実現するためのものとしてとらえられている。このようにショーペンハウアーは認識においての真理への欲求のみではなく、自らの存在の存在するが故の欲望を見つめ、光をあてることで存在の認識するものとしてだけでなく存在の欲望するものとしての側面を見つけ、認識に影響を与えるものとして、哲学に持ち込まれたことで、哲学にさらい深い新たな課題や問題の可能性を見出した。このような、人間の認識の及ばない欲望や意志が自己の内部で自己の認識や行動決定などを完全ではなくとも、支配しているとなると、我々の自己はこれまでの自己を認識する認識者としての自己は自己でなくなると考えることができる。ここから生じたのがキルケゴールやニーチェの主体性をめぐる問題、主体のゆらぎであると考えることもできる。つまり、主体を支配するものであるとされていた理性のゆらぎについて考察し、カントは理性の活動範囲を規定し、審理に導いたと思われたが、存在の考察により欲望や意志という概念によって、主体自体のゆらぎつまり実存のゆらぎへ進んでいった。
まとめ
カントとショーペンハウアーの哲学をもとに、ドイツ観念論とその後の実存主義での存在論での違いからどのような変化があったのかを考察してきた。そして見えてきたのは認識論ではたどり着けなかった、存在を把握しようとすることで見えてきたものは人間の欲望である。それはショーペンハウアーが考えるような世界すべてを支配する力としてだけでなく、欲望や様々なものが自己の認識や行動に影響を与える可能性があるものすべてである。このようなものはその後の哲学の中に持ち込まれ考えられていく問題である。
引用文献
[1]著者カント , 訳者中山元 , 『純粋理性批判3』初版と第二版 , 初版 , 2010年 , 第二版の、観念論への論駁
[2]著者ショーペンハウアー , 訳者西尾幹二 , 「意志と表象としての世界1」 , 初版 ,
2004年 , 第十七節
[3] 著者ショーペンハウアー , 訳者西尾幹二 , 「意志と表象としての世界1」 , 初版 ,
2004年 , 第十八節
[4] 著者ショーペンハウアー , 訳者西尾幹二 , 「意志と表象としての世界1」 , 初版 ,
2004年 , 第二十七節
参考文献
・著者カント , 訳者中山元 , 『純粋理性批判3』初版と第二版 , 初版 , 2010年
・著者カント , 訳者中山元 , 『純粋理性批判4』初版と第二版 , 初版 , 2011年
・著者ショーペンハウアー , 訳者西尾幹二 , 「意志と表象としての世界1」 , 初版 ,
2004年