真実をちゃんと観ているか?無意識の情報取捨選択について
2022年1月
私はある展覧会のスタッフをしていた。
『I was you, you will be me』というタイトルの現代アート作品の展示だった。
コンセプトはこうだ。
奈良のこの辺りにたくさんの古墳があり、埋葬品なども出土していることをヒントに、現在を見てみる。
すると、現在のテイクアウトの弁当の容れ物が古墳時代の土器に相当するのではないか。
そしてもし将来、これらが発掘されたら、現在はさしずめ『器-プラスチック時代末期』と呼ばれるのではという発想に基づく。
と言うわけで、周辺で拾い集められたプラスチックの容れ物がうやうやしく展示されていた。すき家、吉野家、松屋などの丼の容器などが…
なんじゃこれ?
現代アートは分からんなぁというのが正直な感想。
ゴミを壁に貼っただけやん…
私の頭はこう反応した。
今なら文献やデジタルで記録も残っているのだから、土を掘って発掘される必要もないだろう。
それに、プラスチックが分解されにくいと言っても土器や石器ほど長く残るのだろうか。
ある日、1人の男性がギャラリーを訪れた。
その種の芸術に造詣が深そうな感じ…
「影がキレイですね。影がうまく交差するように、考えて展示されてるんですね」と言った。
えっ,影って?と思った。
私はそれまで、影があることに気がつかなかったことに気がついた。
言われた途端に、影は姿を現した。
今なら写真でもくっきりと分かる影が、それまで私には見えなかった。
その時、自分が明らかに情報を必要以上取り込まないようにしているのに愕然とした。いかに自分が情報を操作しているか。
それは情報過多の現在に生きるための防衛反応なのかもしれない。
すべてを詰め込んでいては、処理できないから事前に情報を取捨選択しているのだろう。だから責めるつもりはないけど、これは恐ろしいことだ。
無意識にそれをやっていることが恐ろしい。
無意識だから、捨てた情報があったことにさえ気づいていない。
この場合は、『影』の存在。
私はプラスチック容器その物しか見ていなかった。
これが、「フィルターを通す」や「色眼鏡でみる」に通じる。
それ以来、自分が見ている世界がすべてではないと考える習慣ができた。
日々、私は自分に問いかける。
「真実をちゃんと観れているのか?」