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読書のきっかけはいつも不純

高円寺のタバコが吸える喫茶店、「珈琲 高円寺茶房」で群像の2024年12月号を読んでいる。最近、可愛がってもらっている杉本さんという方が、この人は犯罪とギャンブルに手を染めてないガーシーと僕は裏で思っているが、彼と小説家の保坂和志が対談した「小説的思考塾」というトークイベントの振り返りを、保坂さんがその群像の連載で書いていると知ったからだ。
僕はこれから、保坂さんのトークイベントに行き、彼と話すにあたって、今まで一度も彼の文章を読んだことがないので急いでその群像を買って読んだ。話のネタになるかなあくらいの気持ちだ。他にも、最近読んでいるのはDos Monosの荘子itの『ヒップホップ対話篇』、卯城竜太(Chim↑Pom)の『活動芸術論』など、トークイベントで共演予定の方と話すネタに読むくらいで、純粋なその本への関心だけで本を読むことが無くなってしまった。唯一、何の知的生産性も、トークイベントで使うネタでもないのに読んだ本は電気グルーブによる2000年代前半の下ネタと雑談オンリーの対談集、『電気グルーヴの続・メロン牧場: 花嫁は死神』くらいだ。
何が言いたいかというと、来年28歳を迎え、時間にも限りがあるのだから、読む本一つ選ぶときにも不純な皮算用が働いてしまう、それはコスパとも僕の中では違う。コスパは純粋にコストパフォーマンスを求める、何が「パフォーマンス」なのかも自分で価値設定できない大衆向けの新たな指針だが、僕は僕なりの将来の現実を描いて、そこにたどり着くために必要そうな本だけを選んでいるつもりだ。だから世間が言う「名著」や「話題作」じゃなく、「僕の世界に必要な一冊」を迷いなく選び取るようになってきた。それはレストランも、パーティーも、女の子も一緒だ。2〜3年前の無節操にいろんなものが好きだった自分から、「自分はこういう女の子と一緒にいたい」「この本を読みたい」それ以外の誘惑にあまり惑わされなくなった。
それは何より、饗宴というイベントが自分なりに一つ、表現の場として確保していることが大きい。もちろん年齢的なこともあると思う。
若くないとは言わないが、ダンスパーティーで毎週フロアの最前列にいて、色んなレストランに色んな女の子と行く年齢ではなくなった。
心に決めた女の子と、心に決めたレストランに通い、心に決めた人が書いた本を読む。村上春樹風に、限定された人生と限定された幸福を受け入れつつある。

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