教育関係本書評
ここで私が大学在学中に何となく存在を知り、自分で読もうと思って読んだ本の内、わかりやすく、特に感銘を受けた本を2つ選んで紹介する。まぁ、教育学部に入っている人には知っているかもしれないし、これらの本は結構有名で書評もいっぱいあるから、あえて紹介するまでもないかもしれないが、とにかく自分の言葉で書きたいので書いてみる。
①無着成恭他『山びこ学校』・補足:佐野眞一『遠い山びこ:無着成恭と教え子達の40年』
②木村泰子/島村優子『「みんなの学校」が教えてくれたこと:学びと育ち合いを見届けた3290日」』
①無着成恭他『山びこ学校』・補足:佐野眞一『遠い山びこ:無着成恭と教え子達の40年』
『山びこ学校』は、教育者・僧の無着成恭(1927~2023)が、当時勤めていた山形県の山元中学校の生徒達の綴り方(作文・記録)をまとめて、1951年に発表したものである。
無着は、1927年に山形県に寺の住職の子として生まれた。駒澤大学に進学して仏教を学び寺を継ぐはずが、空襲で大学が焼けてしまい、代わりに食べていくためと母に勧められた教員養成のための師範学校に進学したことで、彼の教師人生は始まった。
1948年彼は、山本中学校(現・山形県上山市)に配属される。そこは、屋根はかやぶきで、窓は障子で破れたママといったボロボロの学校だった。
子ども達は、飢え、食べていくのすらままならない状況で生きる意欲を失っていた。
無着は、悩んだ末、師範学校時代に知って、多少の指導を受けていた戦前の作文運動である「綴り方」に何となくの着想を得て、子ども達に主体的に考えてもらおうと、自分達の生活について書いた文章を書かせた。
そして、子ども達が書いてきた文章を元に「なぜ、教育を受けると、百姓が嫌になるのか。」などといった問を投げかけ、討論や調査活動を促進させ、主体的に、身近なものに関心や改善の意思を持たせつつ、学校の勉強に必要なことも学ばせていったのだ。
この過程で作られた文集「きかんしゃ」がやがて徐々に評価されるようになり、1951年に編集されて出版されたのが、「山びこ学校」である。
本書の内容の特徴は、子ども達が方言で村のありのままの生活を綴っているということである。内容は生徒の母が死んだ話など、深刻なものもある。
形式は、詩の他に、日常生活のことについて書かれた作文や教科書代や学校の経営費を計算したレポートもある。これが、特に最初から意識はされていないと思われるが、結果として戦後の教育界でおこなれていた、コアカキリュラムと呼ばれる、一つの主題を中心とした、教科の枠を取り払った教育方法の1つの例ということになるだろう。
この本を読んでいると、生命の脈動を感じてくる。教えるというより、考えると言うより、生きるということを直観的に感じる。教科学習的な授業の実践集とかではないから、そこは現代の教育者にとっては役に立たないものと思ってしまうところもあるが、貴重な実践集であり、芸術作品であるといえるだろう。調べ学習ということで考えてみても、今の時代でも家計費や学校の経営費なんて気にする子どもはほとんどいないと思う。それが、勉強することもままならない、小学校の学力も怪しかった子ども達がレポートを制作しているというのが素晴らしいと思う。
『遠い山びこ:無着成恭と教え子達の40年』
は、ジャーナリストでルポライターの佐野眞一(1947~2022)が、「山びこ学校」の関係者を丹念に取材していく力作で、上記の作品背景についても、この作品を元に記述している。『山びこ学校』について深く知るためには、この本を読むことは避けては通れないと思う。
『山びこ学校』は、発刊されるやいなや大ベストセラーとなったという。出典は忘れたが、私が読んだ教育関係の本によると、昔は、教育学部の学生達が、『山びこ学校』を持って聖地巡礼的な感じで山元中学校に行っていたらしいが、正直な話、元教師だという方に話を聞いたことがあったが、その時は大学で習ったことはないと言われた。
無着は時代の寵児になるが、本作の中で貧困や村の民俗宗教の存在を曝露したことなどにより、村から追放されてしまう。
その後、駒澤大学に入学し、卒業後は明星学園で教鞭をとり、ラジオ番組の出演者として教育タレントの仕事もした。
明星学園で教鞭をとる中で、無着は科学的で体系的な教育方法に傾倒するが、自らの中での迷いが大きくなり、学園内での争いに敗れるなどして、教師としての限界を感じ、出家する。
その後は僧侶として各地を転々として過ごした。
無着は、立場の変遷を山元中学校の著名な教え子である、佐藤藤三郎に批判されているし、終生、『山びこ学校』の存在に翻弄されたように見える。だが、ここまで迷って・迷った人は少ないのではないだろうか。現代に生きる教育者がここまで迷えるんだろうか。この迷いが必要なのではないだろうか。
山本中学校の卒業者達もさまざまな道を辿った。失踪したり、若死にしたりしたものも入れば、事業者になった者もいる。だが、全体的に言えば、「たくましい」ということだ。それは、高度経済成長の影響もあるかもしれない。だが、彼らは、間違いなく素晴らしい生命力を持っており、それは、やはり無着の実践が大きいと言えるのではないだろうか。
②木村泰子/島村優子『「みんなの学校」が教えてくれたこと:学びと育ち合いを見届けた3290日」』
は、教員・校長として活躍した、木村泰子(1948~)が2006年から2015にかけて校長として赴任した大阪市立大空小学校での体験をまとめた本である。
この大空小学校のことをどういう学校かということを説明するのは難しい。それは本の中ではっきりと定義づけすることがこばまれているようなかきぶりであるからだ。
それを何とかまとめてみると、元々大阪市の住吉区は児童の数が一部の学校に集中しすぎており、そこで木村は新たな学校を作る必要性を感じ、教育委員会や区役所にかけあって、2006年に大空小学校を作った。その際に自らの独自色を出したということである。
この独自色とは何かということを5点あげると、①障がい者の子どもと健常者の子どもが一緒に学ぶ、②「たったひとつの約束」と「やり直し」というルールがある、③全校道徳の時間がある、④小6の子が「リーダー」になる、⑤保護者を「サポーター」と呼ぶ、といったところだろうか。
①において、「障がい者」と「健常者」という言葉を使ったが、本書では、一部を除いてこのような言葉は使われていない。大空小学校では、すべての子どもが等しく同じ立場なのだ。多種多様な存在を内包するという「インクルージブ教育」という言葉も1回程度、大空小学校ではそのような言葉を使っていませんという文脈ででてくるだけだ。
②の「たったひとつのやくそく」とは、大空小学校における唯一のルールで、「自分がされていやなことは、人にしない。言わない」というもので、これを破り、他の子どもに暴言や暴力をしてしまった子どもは、「やり直しの部屋」(校長室)に行って、反省の言葉や、これからどうするかという宣言をする「やり直し」を行う。「やり直し」をやるのは子どもだけではなくて、木村を含めた教職員も反省することがあったらやるらしい。
何か一般的なイメージで言うと、校長と直々に会うということはちょっと怖いような気もするのだが、これが何か良い効果があるのだろうか。
③の全校道徳とは、月曜日の1時間目に校長も教職員も地域の人たちも、学校のすべての学年の子どもも講堂にあつまって、あるお題をみんなで話し合うという哲学対話的な時間のことだ。
お題として挙げられていたのは、「いじめって何」「小さな勇気について?」といったものである。
④のリーダーというのは、どのような存在かはわかりにくいのだが、小6がリーダー、小5がサブリーダーに任じられており、全校集会では教師に代わって列を作らせたり、行事を計画したり、問題行動を起こす子どもがいたらそれを防ぐなどの学校内で主体的に行動し、全体の活動を律する役割を与えられている役割のようだ。
⑤の保護者をサポーターと呼ぶというのは、これは、単なる保護者に責任感を与えるために作られた名称なのか、それとも普通の学校より役割が大きいことを示すのかがよくわからないが、ともかく大空小学校は保護者や地域の人への学校への関りが密接な、今はやりの言葉で言えば、「コミュニティスクール」だとか、「チーム学校」といった言葉で表されるような学校らしい。
大空小学校には、不登校だったり、授業中に教室を抜け出したり、他の子どもに暴力を振るったりするような問題行動を起こす子どもがある程度の割合いたが、制度面を強調するのはよくないが、こうした施策を背景とする校風によるものか、問題行動がおさまり、主体的・協調的になっていったのだった。
このような学校の様子や取り組みが全国的に評価されるようになり、2012年にはカメラが入って学校の様子が記録され、テレビ番組となり、2015年には映画化され、文科省特別選定作品となって全国上映が行われた(未視聴)。
私としては、そもそも大空小学校がどのような学校であった(ある)のかということだけではなく、そもそも、どういう背景や過去があって木村がこのような学校を作ったのかに興味があった。
本の中で挙げられていたのは、木村(旧姓:古杉)が教育実習の時にあった「教育の神様」と呼ばれていた、「ハラ先生」のことだった。ハラ先生は、実習の際に木村に対してほとんど介入しなかったし、授業の時も、全部子ども達に自分で考えさせる先生だった。
ハラ先生のスタイルに影響を与えられた木村は、新任の学校で同じような学級経営をする。すると保護者や教職員からも問題教師のレッテルを張られ、担任を外されてしまう。しかし、子ども達には信頼され、協力者の先生もあらわれ、徐々に学級を解体して学年単位で授業を行うなどの改革を行っていく。
5つめに赴任した学校では、障がい児を含めて学年全体の児童を講堂に集めて授業を行うということもした。
私が思ったのは、決して何らかの単体での大きなきっかけや理論的なものがあったわけではなくて、いろんな人々の出会いや、その時その時の木村の必死さがやがて大空小学校でのスタイルにつながっていったのだ、だから特定の原因や背景に原点を求めることはできないのだな、ということであった。
くわえて、私が1番に注目したのは、彼女のメンタリティだ。新任の教師で20歳そこそこで、1度は問題教師のレッテルを貼られて、無理やり生徒と引きはがされるなんて目にあって、良く立ち直って自分のスタンスを貫けるものだと思ってしまう。普通の人や自分だったら、教師を辞めてしまうと思う。これは彼女のメンタリティが異常に強いのか、それとも昔の時代はある程度寛容さがあったのか。いずれにせよ、様々な奇跡がつながって、大空小学校は生まれたのだ。
後は、母のことについても書かれている。
木村の母は、大正生まれで、おそらく高等小学校までしか出ていない。パートで背広や洋服の仕分け作業をする仕事についていて、どこかつきはなして自立を促すような人で、木村にとって非常に大きな存在であったそうだ。この母の言葉が深い。
なんか、以前どこかで読んだ、ユダヤの大富豪の言葉に通じる言葉だ。
私は、木村の母の話を読んでいてて、ふと父方の祖母のことを思い出した。父方の祖母は、農民の家に生まれ、中学校卒業で働きに出て、舅、姑にこき使われながらじっと耐え、一生懸命働く人生だった。子育てを終え、舅・姑・旦那の介護が終わり、やっと自由になって余生を楽しんでいた矢先、癌になって亡くなった。
私は、父方の祖母のところにはあまり行ったことがない。半年に1回くらいかな。それというのも、もう私達は町の人間で、別の家の人間で、というような感じになって、近づいてはいけないような感じにもなっていたからだ。
でも、亡くなる前に、行ったほうがいいと思って一人でお見舞いに行った時にいろいろ話したことがある。なぜか照明をつけず、沈んでいく太陽の光にしわくちゃの顔を照らされながら、祖母は「人生において、恋愛することが大事だよ。私は自由に恋愛することもできなかったからね。」「やっぱり、教師と警察だけはこの世からなくならないし、安定した職業だから、教師か警察になるのがいいんじゃないかね、でも、これからは、生き方が自由になる時代だからな、考えるようにおやり。」とか言っていた気がする。そのお話は、それくらいの、田舎に住んでいる老人の言葉とは思えないような先進的なものだった。そして、本を読んでいるときに、祖母のことを思い出して涙がこぼれた。
木村の母しかり、父方の祖母しかり、なぜ、このように素朴な言葉が重いのだろうか。私は、それは彼女らが学校に行ってないからなのではないかと思った。
学校に行けば、いろいろと難しいことも教わるし、いろんな人から影響をもらうこともできる。でも個性が矯められたり、自分で考える力を失ったりするかもしれない。木村の母や父方の祖母は、若いときから社会の中で生きることで、常に自分の気持ちを大事にしながら自分の頭で考えていたのかもしれない。
書評のまとめと私の主張
この2つの本を読んで、共通して示されているものは何か。それは、私がいいたいことと共通するが、教師に必要なのは、「迷うこと」と「愛」である。当たり前のことを言っているように思えるかもしれないが、今を生きる教師たちは、これがあるだろうか。人と人との関わりが一応あっても、無機物と無機物の接触になってはいやしないか。
話はずれるが、大空小学校の本に関連するが、私の知見が浅いかもしれないが、大学にはインクルージブとかそういうことを言っている人たちがいるが、彼らは、本当に多種多様な、場合によっては弱き人たちの気持ちによりそっているのか疑問に思うときがある。結局のところ、飯の種ということのみになってはいやしないか。
当てつけにはなるが、属性に注目することが必ずしもよいことではないが、不登校とか、虐待とか、いろいろな教育の問題を研究する研究者に、当事者ってどれくらいいるのだろうか。結局研究者っていうのは、ある程度のエリートしかなれず、もともと虐待されたり、通信制高校で学んだりといった人たちが、研究者になろうとしたら、コミュニケーション力が足りない、学力が足りないとか言われて、学ぶことが論外なのだろうか。人のせいにばかりするのはよくないとは思うが、やはりそういう壁を感じてしまう。
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