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【2020年旅の記録】茨城県中部を自転車と電車で横断 いろいろな歴史を学んだ3泊4日の旅 

  


  はじめに

 #私のこだわり旅の企画のバーナーの存在に募集期限まで残り3日となった今になって気づいたとき、ふと、4年前にした旅のことを思い出した。この旅はなかなか大変で、学んだことも多かったものの、今まで誰にもはなしたことはなく、是非、この機会にエッセイ?ルポ?にしてみなさんに見ていただき、供養しようと思った。

 2020年夏、大学での指導教授が平和教育に関心があり、「今年のゼミ合宿は、茨城の戦跡に行く」と言っていたのにも関わらず、コロナ禍により、集団での移動は良くないと中止になり、せっかくの青春や学びを奪われた私は、意気消沈していた。

 コロナ憎し、だが、このまま引き下がるもんか。ゼミで行けないのなら、1人で行ってやる。そう思った私は、単身茨城県に行くことにした。私は車を持っていなかったし、サイクリングが当時は趣味だったので、無謀にも自転車で移動することにし、体力や時間の都合上無理な場合は電車を利用すると決めた。

 中心拠点をつくば市と決め(知り合いがいたので)、そこに自転車を送り付け(さすがにそこまで自転車で行く気はなかった)、ゼミで行く予定だった場所+自分が興味を持った場所を巡ることにし、ここに3泊4日の私の旅が始まったのだった。

 なお、当時の記憶から起こして記録するので、必ずしも正確な記録でないこともご了承願いたい。さらに補足すると、この記録は4年前のものなので、博物館の展示や写真撮影のルールなどは現在変わっている可能性もあるので、そこにも注意されたし。

 ちなみに、私の旅におけるこだわりは、「ママチャリ」と「歴史」、「ソフトクリーム」である(今回はソフトクリームはなし(忘)(泣))。

1.一日目(8月18日)牛久大仏を見る(牛久市)


 8月18日、この日は、午前中つくば市内を散策、スイーツを食べるなどして過ごす。正午頃に目的地である牛久大仏のある牛久市に向けて出発した。気温は32度くらいで、晴天だったと記憶している。つくば市から東の方へ、20kmほど、2時間30分ほどで現地へ到着したと思う。

 途中の旅路では、道が狭くなって、巨大なクレーン車がすぐ横を通り、命の危険を感じるときもあった。

 どこまでも続く自然、厳しい暑さに圧倒されて精神を折られる感じがした。

 

牛久大仏へ行く道のりの風景

 やがて、道は、鬱蒼とした自然豊かな森の中に入り、空気のきれいさや涼しさに感謝しながらも、不安になっていたところで、急に道が開け、目の前に

ドーンと突然目の前に現れた大大仏

 ドーン!!

 と大・大仏があらわれた。

迫力がすごい

 やがて敷地内に入った私は、大仏の内部に入り、エレベーターや階段を昇って地上85mの展望台へ。

      

展望台のスリットから東京方面を撮影
ま、iphon8搭載カメラだからこんなもんよ

 展望台のところには、仏舎利(ブッダ、お釈迦様の骨)と、ブッダの生涯を説明する展示パネルがあった。

 ふと前を見ると、目の前にいた中年の夫婦の男性の方が、展示パネルを見て「インドの山奥で修行して~♬ダイバ・ダッタの魂宿し~♬」と歌い始めた。
 すると女性が、「な~に?その歌」と男性に尋ねた。
 
 男性が「レインボーマンの歌だよ。知らないのかい?」と言うと、女性は「聞いたことがない」と答えていた。

 解説すると、レインボーマンは、1972年に「ウルトラマン」シリーズで知られる円谷プロが作った特撮ヒーロー作品で、主人公のレインボーマンが敵の組織「死ね死ね団」と戦うという内容である。

 この作品において、レインボーマンの師匠がダイバ・バッタといい、歌にも歌われている。

 実はダイバ・バッタとはブッダの弟子で、ブッダに反逆して地獄に落ちたとされる人物(後でブッダの徳によって救済されたとも)の名であり、それをあえて主人公の師匠の名前につけるというのは、かなり製作者の博識と思想性の強さがあらわれているということを示している事象なのである。

 ちなみにレインボーマンの歌は、当時小学生の間で大ヒットして、さまざまな替え歌が作られたそうで、民俗学研究の対象ともされているらしい。
 
 邪推だが、女性の方は、いいとこのお嬢さんでテレビ番組などをあまり見ずに育ったため、この作品を知らなかったのかもしれない。私は、レインボーマンの歌を通して、その後の夫婦の会話が広がることを祈った。

 この後、私は下の階も見学した。特に3階の蓮華蔵世界と名付けられた間は、金色に輝く3400体ともいわれる仏像が壁を覆いつくすように安置されており、圧倒された。

 大仏訪問後、私は、近くにあった浄土真宗開祖の親鸞らを祀る本廟を参拝し、また自転車で20kmの道のりを帰った。

 この日の移動距離は、自転車で40km以上である。

2.二日目(8月19日)内原義勇軍資料館(水戸市)、筑波海軍航空隊記念館(笠間市)


(1)内原義勇軍資料館(水戸市)

 この日は、確か9時頃にチェックアウトし、北の方向にある土浦駅まで13km程度自転車を漕いだ。

 この道のりも、土浦市の境目のあたりで大きな道路が合流する箇所があり、トラックがたくさん通るため、自転車で通行するのは危険だ。
 
 土浦駅で自転車を降り、11時頃のJR常磐線水戸行の電車に乗る。

 その後、40km程度電車に乗り、内原駅で降りた。
 ちなみに内原は合併によって水戸市の一部になったのであり、水戸市中心部からは遠いので、訪問する際には注意願いたい。

 さて、内原駅から目的地の「内原義勇軍資料館」までは、1.5kmあり、ジョギングで向かったが、天気は32度の晴天で熱中症の危険を感じ、途中近くのスーパーに避難し、涼みながらスポーツドリンクを購入して飲んだ。

 ここで、「内原義勇軍資料館」がいかなる施設か解説する。

 「内原義勇軍資料館」は戦前、旧満州(中国東北部)に派遣された、「満蒙開拓青少年義勇軍」の存在を伝えるために設置された資料館である。

 では、「満蒙開拓青少年義勇軍」とはいかなる存在か、下のwikiのリンクを参照してもらいたいが、

 戦前、農村の人口増加と貧困に頭を悩ませた政府は、この問題の解消と、当時支配を固めつつあった満州地域の支配を強化するという一石二鳥を目指し、大量の移民を満州に派遣しており、義勇軍は、その内、16歳から19歳の少年で構成された組織であった。その数は8万5千人とも言われる。
 
  内原には、この義勇軍の訓練所があり、その関係性により資料館は設置されている。

 義勇軍に参加した少年達は、なれない環境に精神状態が悪化する者も多く、暴動が発生したこともあった。また、ソ連軍の侵攻により、多くの団員が犠牲となり、関係各所に深い傷跡を残した。

 残念ながら、館内は撮影NGだった(当時)のため、館内の写真はない。

内原義勇軍資料館

 申し訳ないが正直なことを言うと、館内展示自体は簡素であるため、展示だけを見て義勇軍の少年たちがどのような目にあったのか判断しないで欲しいことをお願いする。詳しく知りたいと思ったのならば、館内や近くの図書館にある資料を時間があれば読んで欲しいと思うし、各種の書籍も出版されているのでそれを参照されたし。

 なお、私の記憶から開拓団のたいへんさが伺える展示品を挙げると、当時現地で発行されていた宣伝雑誌の「開け満蒙」(途中、「新満州」・「開拓」と名前を変更)の1941年の12月?の号(この頃は、「開拓」)の展示があり、そこには、開拓団の女性の体験記が載っていて、物資不足に悩む女性が、夫に「家の中に器が洗面器しかない」と言ったところ、夫に「せんめんきのせんは、千だ(一つの器で何とかしろ)」と言われたエピソードが紹介されていた。

 資料館訪問後、近くにある地蔵院というお寺に行き、そこにある満州移民の慰霊碑に参拝した。

 帰りに内原駅に立ち寄ったところ、気になるものを見つけた。

内原駅横にあった白ポスト
「子どもに見せたくない雑誌はこのポストに入れてください」
と書かれている

 それは白いポストで、「子どもに見せたくない雑誌はこのポストに入れてください」と書いてあった。いったい誰が設置したのだろうか。ちょっと不気味な都市伝説的な存在感だった。

(2)筑波海軍航空隊記念館(笠間市)


 この日は資料館を訪れただけでもたいへんだったが、スケジュールの都合上、強行軍で笠間市の筑波海軍航空隊記念館も訪れることにしていた。

 内原駅から上り電車に乗り、最寄り駅の友部駅で降りる。そこから4kmほどジョギングし、閉館1時間前で入館制限5分前の15時55分頃に入館した。

筑波海軍航空隊記念館に転用されている旧日本海軍筑波航空隊司令部庁舎

 この記念館の特徴は、旧日本海軍筑波航空隊の司令部庁舎を保存してそのまま使っているところにある。
 
 ただ、ここで注意していただきたいのは、最初に受付して資料類を見るのは、この建物の右手にあるこちらの建物である

  

入館制限5分前に滑り込んだ記念館

 事前に調べてもよくわからず、こちらの建物で受け付けをすることに気づかなければ、まさに数分の差で絶望するところだった。

 受付をすますと、まず、VRでの航空機操縦体験コーナーがあったので、さっそく体験してみた。

ゼロ戦のVR体験コーナーとキャラクター

 この他、墜落したゼロ戦の尾翼部分の残骸の展示や特別展の展示、軍艦類の模型などがあった。
 
 2階に移動すると、友部における海軍航空隊の歴史についての展示や下士官が使っていた衣服や兵士の書いた日記、特攻隊員の関係の資料の展示があった。

筑波海軍航空隊記念館右建物の2階展示外観

 特に私の心をうったのは、特攻隊員である藤田暢明さんの遺書が書かれたマフラーである。
      

特攻隊員の藤田暢明さんの遺書

 そこには、「優しいわが愛妻、睦重 来世も次の世もまた次の次の世も暢明の妻となってくれ、睦重、陸重、睦重 優しいお前を誰よりも俺は愛する。睦重さようなら むつゑ、睦重 睦重 優しい優しいただ一人の睦重 さらば 又の日」と書かれており、これを読むと涙が止まらなかった。

 元航空兵角田和男さんの日記も印象に残った。非常にたんたんとした書きぶりで、周囲では毎日のように過酷な戦いで人が亡くなっているのに、感情的な様子がほとんど見られない文面であった。
 私は圧倒的に絶望的な状況にくよくよすることができなくなっていたのかもしれないし、当時は戦争中で、さらに農家の次男、三男で口減らしのために軍隊に行った人たちの命の重さはとても軽かったのかもしれないと思ってしまった。

 2階の展示品を見た後、隣の旧司令部の展示も見た。

 1階の中央部分には、海から引き揚げた航空機の残骸や茨城県内の施設が映画のロケ地で使われていることをアピールする展示(2階だったかも)がされていた(ロケ関係の展示は写真撮影NG)。ロケで訪れた乃木坂46の斎藤飛鳥さんのサインもあった。
 2階では司令室や飛行長室などを見学した。

廊下の写真


司令室

 帰りは、ジョギングして友部駅へ、そこから上りの電車で土浦駅へ、土浦駅からさらに自転車で13kmつくば市内へという感じで、宿泊地についた時には、19時半になっていた。

 この日の移動距離は、電車で88km以上、自転車で26km以上、徒歩で10.3km以上で総移動距離は126km以上である。

3.三日目(8月20日)旧日本海軍航空隊百里原基地門柱(小見玉市)、弘道館(水戸市)

      

(1)旧日本海軍航空隊百里原基地門柱(小美玉市)

 この日は、朝早く7時30分頃につくば市内を出発。土浦駅まで自転車で13kmの距離を走った。ここで下りの電車にのり、石岡駅で降りた。
 
 石岡駅の観光案内所では、自転車を借り東へ18kmの距離を走り、小美玉市へ向かった。

 

途中の自然豊かな景色
民家にはモザイクをかけときました
宣伝ですが小見玉ヨーグルトおいしいです
当地を訪れたらぜひ(写真無し)

 途中は豊かな自然の景色が広がっていた。
 やがて、自衛隊百里基地が近づき、F15と思しき航空機が目の前で離陸した。意外と大きくてびっくり。

 教授の話によると、そのあたりに旧日本軍の掩体壕(航空機を隠すために半地下などで、時には周囲に木などを植えて偽装するコンクリート製の建造物)があったらしいが、見つけることはできなかった。たぶんほとんど壊されたと聞くし、見つけるのは不可能だっただろう。

 結局、百里基地と茨城空港の周囲をぐるっと自転車で回っただけとなった。一応茨城空港のあたりに小高い丘のようなものを見つけ、掩体壕ではないかと思ったのだが、結局何もわからなかった。

 ぐるっと、1周した後、とある交差点の横に無造作に近い形で置いてある旧日本海軍航空隊百里原基地にあった門柱を見た。
 本来は交差点の横断歩道のあたりに基地の入り口があったようだが、戦後に道路をつくるにあたって邪魔となったのか、交差点の横に移設されたようだ。

旧日本海軍航空隊百里原基地前にあった門柱
2020年8月20日

 門の横にあった百里神社にも参拝した。両方とも風化が進んでおり、心が痛んだ。

百里神社遠景

 神社参拝後、石岡駅まで自転車を返しに行った。係の人に「どこまで行かれました?」と聞かれたので、「百里まで」と行ったらびっくりされた。ちなみに係の人が優しかったです。

(2)弘道館(水戸市)

 石岡駅から再び下りの電車に乗り、水戸を目指した。30分くらいで水戸に着き、そこに来たバスにのるが、よくわからない場所で降りてしまう。しようがないので、スマホのGPSを頼りに歩き、近くにあった護国神社に参拝。

茨城県護国神社
2020年8月20日

 参拝後、さらに3.5km水戸市内まで歩く。途中大きな幹線道路がうねっており、その下にはさらに道路があり、私には、水戸市がちょっと近未来的な都市に見えた。

 やがて、弘道館に着く。着いた時には閉館30分前で、あわてて見学した。

 弘道館は、江戸時代に水戸藩が作った藩校(武士の教育施設)で、教育の歴史に興味があった私は、茨城に行くなら行きたいと思っていた。

水戸藩の藩校であった弘道館

       

内部から対試場(剣の稽古などを行う校庭みたいな場所)を臨む

       

藩主の利用していたとされるトイレ
ブレブレで影も写っちゃってごめんなさい

 私が感心したのは、弘道館のなかにあった、藩主専用のトイレと風呂である。おそらくこれを作らせた9代藩主徳川斉昭の泊まり込みで生徒の様子を参観したいという教育熱心な意思を感じた。

 

当時の私塾に通っていた子ども達の似顔絵の展示

 面白いと思ったのは、展示品で、弘道館の初代教授頭取であった青山拙斎
の私塾で学んでいた子ども達91名の似顔絵である。
 今でこそ卒業アルバムなどがあるが、当時出入りが自由などとされていて、クラスもないような寺子屋で一人一人の似顔絵を書こうと思ったのは、いったいどういう理由からだったのだろうか。

 弘道館見学後、水戸市内をフラッっと歩いた。弘道館の周辺にある学校や幼稚園などの建物は昔風にデザインされていて、いい雰囲気だなと思った。

 

水戸城正門

 その後、電車にのって土浦駅に行き、土浦駅で降り、そこから13km自転車を漕いでつくば市へ。移動距離は電車が88km以上、自転車が65km以上、徒歩6km以上で計159km以上である。

4.四日目(8月21日)地図と測量の科学館(つくば市)


 四日目はさすがに疲れが蓄積し、午前中はつくば市内のスーパー銭湯の休憩室で休んでいた。
 午後になって、北西に4km程度移動し、地図と測量の科学館に行った。
 国土地理院の施設内にあるので、ちょっと入るのが怖くもある。
 ここは、文字通り地図や測量の仕組みや歴史について学べる博物館である。たいへん興味深くて2時間も滞在した。
  

地図と測量の科学館

       

エントランス
見えにくいけど床に日本地図がある

       

1階から2階に登る階段のところにある壁には
測量の歴史について書かれたパネルが


       

展示はこんな感じ

       

何か測量を体験できるコーナーがあった
ぜんぜんうまくいかなかったけど

       

伊能忠敬の測量方法を伝えるパネル

       

当時噴火が続いてあらたな陸地ができていた
小笠原諸島の西ノ島で回収された石にタッチ
私の手を白で塗りつぶしてびっくりさせて
ごめんなさい

       
 展示品を見終わって外に出ると、測量で使われた飛行機の屋外展示があった。

航空写真撮影などに昭和58(1983)年
まで使われていた「くにかぜ」

      

日本列島の20万分の1球体模型
これを20万枚しきつめると
日本の広さになるのか?

 この見学をもって旅は終わった。
 印象深いのは綺麗な青空だ。
 4日間全部綺麗な青空が広がっていた。

 いろんな歴史を学ぶことができて考えさせられた旅だった。

 最近は、外が暑すぎて真夏に長距離を自転車で移動することはできないし、なかなか旅に出る時間もないが、

 いつかまた自転車で茨城県を旅したい。そして今度はおいしいものをいっぱい食べたい。

 これだけの旅をしたが、まだまだ茨城県にはいっぱい行ける場所がある。
 茨城県は過去12回も魅力度ランキングで最下位となっているが、そんなわけない(ていうかみんなどの県にもいいところがあるから比べないで欲しい)。茨城はいいところだよ。

 みんなで行こう茨城!!

another


 何とかグルメ要素をぶちこみたいぜ。
 実は2年後、再び牛久市を訪れる機会があった。
 その日、昼ご飯は、「鮪と米」(ひたち野うしく店)さんで鮪丼を食べた。

 厚みの鮪を贅沢に使い、シャキシャキした芽ネギとこだわりの赤酢米がからまり、とってもおいしかったです。

 今調べたところ残念ながらひたち野うしく店さんは閉店したとのことだが、つくば市内に研究学園店があるということなので、皆さんぜひ行かれてみては。


 

   

  

#私のこだわり旅


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