少年とOL(浅野浩二の小説)
少年とOL
一人の少年が自転車を止めてうらやましそうに海水浴場を眺めている。少年の名前は山野哲也。内気で引っ込み思案で、友達も一人もいないので、勉強しかする事がないのである。夏だというのに毎日机に向かって勉強している。目前の砂浜で満面の笑顔で夏を楽しんでいる男女が、山野の目には絶対手のとどかない別世界の人間のように見えるのである。山野は泳ぐのが好きだったので、自分も夏を楽しもうと一夏に何回か、海沿いの公営プールに自転車で行って思うさま泳いだ。が、一人きりというのはこの上なく虚しかった。山野はうらやましげにビーチを眺めた。
「あーあ。僕には入れない世界なんだな」
山野はブレーキレバーをギュッと握って、溜め息交じりに心の中でつぶやいた。
「さあ。プールへ行こう」
山野が呟いた時、山野はポンと後ろから肩を叩かれた。振り返ると週間雑誌の表紙から抜け出したような、綺麗なビキニ姿の美しい女性が笑顔を向けている。
「ボク、彼女を待っているの」
「い、いえ」
「彼女いないの」
山野は恥ずかしそうに無言で肯いた。
「私、東京から来たの。夏の出会いを求めて」
「よかったら、今日、一緒に遊ばない?」
「ぼ、僕なんかでいいんですか」
「願ってもないわ」
「でも、もっとお姉さんと同じ年くらいのハンサムな人がいいんじゃないですか。僕にはもったいなくて申し訳ないです」
「いいから行こうよ」
彼女は山野の手を曳いて、ビーチの方へ歩き出した。
「本当言うと、ボクに目をつけていたの。男の人って、しつこくつきあいを要求してきたり、Hな事に強引に誘う人が多いのよ。その点、ボクくらいの子なら安全なのよ。」
「それに私、ボクのようなおとなしい子が好きなの」
海の家に荷物を預けて、海水パンツ一枚になって出てくると、彼女は待ってましたとばかり山野の手をつかんで、満面の笑顔で海へ向かって駆け出した。
海水にそっと足を浸すと彼女は、
「冷たいー」
と、叫んで、体を硬直させた。
はてしのない無限の青空。
ギラギラ照りつける真夏の太陽。
ビーチに流れるサザンの爽やかな曲。
セクシーなビキニ姿の美しい年上の女性。
(ああ。これが青春というものなんだな)
山野は嬉しさのあまり、大声で笑い出した。
「どうしたの。山野君」
「うれしいんです。最高に」
彼女はクスッと笑って、山野の手をギュッと握った。
二人は手をつないで、寄せ手は引く波と戯れたり、水をかけ合ったりした。
昼食は荷物を預けた海の家で食べた。
山野はヤキソバとオレンジジュースを注文した。彼女はたこ焼きとコーラを注文した。
「山野君。アーンして」
と彼女が言うので、山野が口を開けると、彼女はたこ焼きを爪楊枝で刺して、山野の口の中に放り込んだ。山野が咽るのを彼女はイタズラッっぽく笑った。
「今度は私にもして」
と言われて山野は申し訳なさそうに、ヤキソバを少量箸でつまんで彼女の口にそっと入れた。
その後はもっぱら日光浴の休息となった。
海の家で借りたビニールシートを砂浜の上に敷くと彼女はその上にうつぶせに寝て、日焼け用オイルを山野に渡した。
「山野君。ぬってくれない」
「ど、どこにですか」
「もちろん体全部よ」
山野はおぼつかない手つきで足首から膝小僧のあたりまでプルプル手を震わせながら塗った。それ以上はどうしても触れられなかった。変なところに触れて彼女の気分を損ねてしまうのが恐かった。
「あん。そんなんじゃなくって、水着以外のところは全部ちゃんと塗って」
今度はしっかりオイルを塗ることが山野の義務感になった。山野は彼女に嫌われたくない一心からビキニの線ギリギリまで無我夢中で塗った。
スラリと伸びたしなやかな脚。細い華奢なつくりの腕と肩。細くくびれたウェスト。それとは対照的に太腿から尻には余剰と思われるほどたっぷりついている弾力のある柔らかい肉。それらが全体として美しい女の肉体の稜線を形づくっている。
「気持ちいいわ。山野君のマッサージ。ありがとう」
彼女は目をつぶったまま、うっすらと微笑した。
山野は、はたしてこれが本当に現実なのかと思って頬っぺたをつねってみた。痛かったので、これは現実だと確信することにした。
急にゴロゴロッと雷鳴が鳴って、ポツリポツリと雨が降り出した。彼女はむくっと起き上がって手をかざした。
「ああ。残念。雨が降り出しちゃったわね。帰ろうか」
「はい」
二人は海の家に戻った。彼女は白のタイトスカートに薄桃色のカーデガンを着て出てきた。
「あそこで少し休もう」
彼女は海岸沿いの道を隔てたファミリーレストランを指差した。
二人は店に入ると海の見える窓際の席に向かい合って座った。
「山野君。携帯持ってる」
「はい」
山野は急いで携帯をカバンから出した。彼女はそれをとるとピピピッと操作してから山野に返した。
「へへへ。私の携帯の番号とメールアドレス、登録しちゃった」
「あ、ありがとうございます」
「よかったら山野君のアドレス、教えてくれない」
「はい」
山野は急いでメモ帳をちぎって自分の携帯の番号とメールアドレスを書いて彼女に渡した。
彼女はすぐにそれを自分の携帯に登録した。
「山野君。よかったら、また会ってくれる」
「し、幸せです。お姉さん」
夏休みが終わった。皆、北海道へ行ったの、海外へ行ったの、と自慢している。山野は眼中にない。一人が山野をからかった。
「おい。山野。お前、どうせ家で勉強ばかりしてたんだろう。だがな太陽の元で青春を謳歌するってのは、素晴らしい事なんだぜ。まあ、ガリ勉はせいぜい頑張って東大へでも、どこへでも行ってくれや」
「でも官僚になっても賄賂はするなよな」
ははは、と笑って彼らは去っていった。山野は彼らの揶揄を俯いて聞きながら、彼らが去ると同時にフンとせせら笑いながら、携帯のメールの着信ボタンをおして昨日きた美奈子からのメールを嬉しそうに開けた。
「山野君。この前はありがとう。今度の日曜、大磯ロングビーチへ行かない。勉強のジャマでなかったら。大磯駅で正午に待ってます。美奈子」
(おくれているのはお前達の方さ)
「はい。全然勉強のじゃまじゃないです。喜んで行きます。山野」
こう書いて、得意気に送信ボタンを押した。