空木春宵『感応グラン=ギニョル』感想

何らかの欠損や資格を指摘するとき言外に想定される、「満足な身体」を標準とする規範性の浮き上がらせ方が多彩だ。疎外される者もまた、疎外する者に変身してしまうし、非難するその者の視界には、必ずや欠けが生じている。以下、各短篇についての、脱線しがちで未整理な感想。


感応グラン=ギニョル

奇形あるいは欠損した身体を持つ少女による劇が衆目を集める、浅草グラン=ギニョル。鼻のない娘、体じゅうに瑕が刻まれた娘などなど、世間的には怪奇と判じられる見た目の者らが集うなか、その新入りの娘は、非の打ち所のない容姿を備えていた。

これでは仲間入りの資格なしと不平を言う座員に対し、だが座長は言い放つ「この子にも、ちゃんと欠けているところがある」。曰くこの娘には心がないのだ、と。そして見出された娘の異能により夢幻の装いを得た劇は、一層の盛り上がりをみせていく。

当の一座においてのみならず、内心の不可視であることは一般的な、万人に共有可能な常識であるはずだが、であるにもかかわらず、ないと断言することができてしまうのだから不可解だ。論理にせよ、認知にせよ、他者の振る舞いという外見から、人は容易に「ない」と断じてしまう。

たとえば動物機械論は動物を魂のない機械と見做し、あるいは現代の哲学者ピーター・シンガーなどは論理によって水準を設け、新生児や奇形児など水準未満の「非生命」であると主張する。
しかし、長らく意識や心の座であると主張されてきた大脳皮質を持たずに産まれる水無脳症児についていえば、ある実験においては、意識や心の存在が認められるとされている。まったく相反する立場や見解があるなかで、果たしてこれを「ない」と言ってしまっていいものか。そう言えてしまうことの無謀こそ、不当な不可視化という人類普遍の悪しき形式として厳しく咎められるべきと、個人的には思われる。

地獄を縫い取る

共感を伝達可能とする技術〈蜘蛛の糸〉が社会を網羅する、架空の未来社会において、密かに開発される嗜虐用AIを巡る事情の先に、噴きあがる地獄絵図。内心が自由である故、発火し自らを焦がす地獄となれり。

AI図像は人でなし、フィクション存在と人間存在は等号で結ばれ得ないとの哲学理論が現実にあり、この議論は重要な恋愛観の視座を示す。だが、図像へ差し向ける感情は、現実の人間のものでしかありえず、ぼくはここで口を噤まざるを得ない、自分のありようを思い知る。「しにくる人のおちざるはなし」おちざるものだけがこのものに石を投げよ。でなければ焼かれよ。

メタモルフォシスの龍

恋に破れた男は蛙に、女は蛇になる病。しかも蛇化の途中において、女は相手の男を喰らいたくなるという。その食欲に追われる男らは安全安心の閉鎖都市である〈島〉へ逃げ込み、蛇が完全変態しきるのを待つ。女らは〈街〉に暮らしながら、煌々と輝く男どもの理想郷へ睨みを利かせ続ける。

奇抜な世界設定に、清姫伝説や半蛇(=般若)のような日本古来のモチーフが取り込まれ、ストーリーテリングには現代的なひと捻りもある。病による残酷な性差の仕分け、それによる分離差別、そして感情の複雑さや分類のし難さなど。

羞恥と収奪のきわみにあるこの侘人が、もし瞋りを棄てるような結論を迎え入れるのであるならば、これは既存世界のありようを肯定する枠に収まる恭順の物語なのであり、清々しくも感じられる結末は、そのような悲恋物語であればもう要らないという決別宣言とも思われた。

徒花物語

ゾンビと化す病に罹患した少女たちが集められた学校にて、生徒たちはゾンビの心を描写する出所不明の小説「徒花物語」を回し読む。敷地を囲む高さ五間ばかり白亜の壁の向こうでは、何やら戦争が続いている。生徒たちは互いの絆を確かめ合うために、それぞれに所有する物品や身体の一部同士を交換するZの契りを結ぶ。

身体的な欠損や奇形、痛みなどのモチーフが引き継がれ、ここまでが一種の連作短編集のようでもある。
どの収録作においても、主人公らは、己を疎外する他者や構造への瞋りを棄てず、慈悲に目覚めたり赦したりもしない。赦しの物語などは畢竟じて既得権益を強化する、ご都合に沿うための恭順のごとき変化であるともみえ、これを良しとしない眼差しの先には徹底的な破壊があり、それでいい、それでこそいいとぼくは思う。

(ところで身体交換の元ネタは、もしかして川端康成「片腕」だろうか? こちらは未読なので近々読んでみるつもり)

Rampo Sicks

廃液と汚泥に塗れた領区「Asakusa Six」において美は罪である。界隈を監視する〈盲獣の眼〉に見咎められた者は、たちまち探偵団に捕縛され、美を計られ、その姿かたちを適切な範囲へと調整される。 「美は見る者の目に宿る」(Beauty is in the eye of the beholder)という言葉があり、おそらくこのようなことが著者の念頭にあっただろうと推測するが、こうした命題の真偽や、美醜という基準の正当さが読者に問われる。表題作の続編。

持って廻った相手の口振りに不見世は当惑するばかりだ。何を見ろと云うのであろう。”選択“とは何の事か。斯様な疑問を断ち切るように、皓蜥蜴は煙管の灰を落とし、椅子から身を持ち上げた。「一等大事なのは、何だって手前エの眼で見ることだ。そうして自分で判じる事だ」

空木春宵「Rampo Sicks」『感応グラン=ギニョル』東京創元社p.351

美醜を計れぬ皓い鱗に総身覆われし怪盗「皓蜥蜴(しろとかげ)」と、美醜の法を牛耳る〈諸妬姫(もろとひめ)〉が使役する探偵団との派手なスチームパンク活劇も目を惹くが、そうした煌びやかに衆目を集める力を持つ者らのはざまに囚われ揉まれつつ、しぶとく地を踏み歩む瑕だらけの娘、不見世(ふみよ)の声こそが胸を打つ。醜悪怪奇極まる街の底に睡る少女の夢を覚ますのは、瞋りだ。

おわりに

虐げられし者が鬼と化し、欲するものに手が届かないまま、力及ばざるがゆえに恭順せざるをえないモノとして静かに闇へ消え去ることをよしとしない、新しい鬼の姿を『感応グラン=ギニョル』収録の短編群に見た。古いモチーフへ現代的価値観を混ぜ込むことで引き出される真新しい結末、いま必要とされるような形にブラッシュアップされた最前線の短編小説として、どれもこれもがまさに珠玉といっていい出来。

最後にもう一押し、見て見ぬふりという事態について強調しておきたいのは、かつて人々が「奴隷を人間と見做さなかった」ということだ。そして現代においては、性的少数者や身体障碍者、非差別者が奴隷のそれに近い身分を不当に押し付けられている。さらに未来も視野に入れたらば、AIがこの問題を再燃させる存在になるだろう(平野晋『ロボット法』は、この盲点に光を当てる良書)。

生命/知性ありとおぼしきものを思考の俎上に載せないよう、身勝手に論理を操作し、不可視の立場へ押し込め排除する愚を、ぼくらは再び犯すべきではない。つぶさにみよ、あらゆる思考はそこからはじまる。

(以下に単行本へのリンクを張っていますが、近々文庫本が出版されるとのこと)


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