現代思想の偶像崇拝。

 私は現代思想(特にラカン、デリダ)が大好きであるが、現代思想的思考によって(あるいは潜在的に?)生まれた考え方、手法にはうんざりしている。
 まず「外側を考える」というのは、考えられないからこそ外側なのである。ラカンはそこをよくわかっており、捉えきれないから代数として未処理のまま、他の計算(記述)できるところだけを記述したのだ。デリダは、内側を揺らがせて外側の存在を匂わせるに留ま(れば良か)った。
 そして「外側を考える」というのは、内側から逃走することではない。ドゥルーズに納得できないのはここであり、アナーキズム的な方向に行くしかないこの考え方はくだらない。ドゥルーズ的に差異として捉えるならば、それこそ揺れている人(存在)はシステムの中で生きるしかなく、その外側というのは別のシステムに過ぎない。それは外側ではない。システムの外はシステムなのである。
 ラカンが表現する物自体は、カント的なまさに到達不可能な点であり、逃走するとか、そんな発想もできない場所である。東浩紀氏的デリダが提示したような複数性も揺らぎも考えることすら及ばない場所である。否定神学という言葉は見事な発明であるが、まさにユダヤ的な神の絶対性をそこに見なければならず、その神について考えるということがそもそも原理的に起こりえない。しかし、現代思想は否定神学的に神を揺らがせようとしている逆説?皮肉?が、ある。おそらくはこれが偶像崇拝なのだろう。神は単数か複数か?数理的に把握可能な点がある?結論が原理的に出ない場所を議論し続ける様は、まさに去勢された人間の思考様式そのものである。去勢されたのだから、諦めるしかないのだ。諦める。それこそがニーチェの示した境地ではなかっただろうか。

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