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29. 憧れた漫才師の背中
僕のnoteでは、過去の芸人時代の体験をもとに感じたことを物語として綴っています。本日のテーマは、「漫才」です。
僕の人生は漫才に魅せられた人生だった。
お笑いに人生を捧げた日々と、芸人引退後の苦悩を綴った物語です。
同じように夢を追う人に届きますように。
それでは、最後までお付き合いください。
笑いへの目覚め
僕がお笑いに初めてハマったのは、高校生の頃だった。NHKで放送されていた『爆笑オンエアバトル』を観たことがきっかけだ。
それ以前も『ボキャブラ天国』で、テンポよくボケたりツッコんだりする海砂利水魚さんや爆笑問題さんを見て、「かっこいいな」とテレビにかじりついていた。
しかし、本格的に夢中になったのは『爆笑オンエアバトル』からで、毎週録画しては何度も繰り返し観ていた。
そして、その番組で初めて気づいた。
舞台の中央に置かれた一本のサンパチマイク。それだけで笑いを生み出す男たちがいることを。
彼らは、ただ立って喋っているだけではなく、そこに世界を作っていた。
「なんてかっこいいんだ!!」
それが漫才だった。僕はそんな漫才師の姿に心底憧れた。
憧れのツッコミ
特に好きだったのは、アンタッチャブルさんの漫才だ。山崎さんの破天荒なパンチのあるボケに、柴田さんのキレのある江戸っ子ツッコミ。その絶妙な掛け合いがたまらなかった。
ツッコミには「音程」がある。そのことに初めて気がついたのも、彼らの漫才を観たときだった。間合いや音程がズレるとウケないが、ピタリとハマると笑いが倍増する。
柴田さんは、それを完璧に操っていた。表情、トーン、声質、体の使い方。すべてが笑いを加速させる要素になっていて、僕はツッコミに強烈な憧れを抱いた。
漫才の虜に
僕が好きな漫才は、しっかりとしたフリ、わかりやすいボケ、そしてリズム感のあるツッコミがあるもの。テーマも、できるだけシンプルなほうがいい。何も考えずに楽しめる、心地よいテンポの漫才。いわゆる「ベタな漫才」こそが、僕の好みだった。
僕は頭が悪いくせに、つい余計なことを考えてしまう。そのせいで、すぐに脳が疲れる。だからこそ、何も考えずに笑える漫才に夢中になった。
漫才を観ていると、頭の中がすっきりとリフレッシュされるようだった。
高校生の頃から、好きな漫才師のラインナップはほとんど変わっていない。
アンタッチャブルさん
タカアンドトシさん
ハマカーンさん
だから、憧れたツッコミも自然と柴田さん、トシさん、神田さんだった。(※当時、ハマカーンさんは神田さんがツッコミだった)。
テンポを作り、お客さんを引き込み、キレのあるツッコミを繰り出す。そんなツッコミが僕の理想だった。
そして芸人になり、憧れの先輩方にお会いできたときの感動は、今でも忘れられない。まるで夢の中にいるようだった。
漫才師への道
高校に入ると、進路について悩み始めた。正確には、「どうやって漫才師になろうか」と悩み始めた、といったほうが正しい。
就職するという選択肢は、僕の中にはまったくなかった。頭の中にあったのは、「漫才師になり、舞台で笑いを取りたい」という思いだけ。
サンパチマイクに向かって飛び出していく自分を想像しない日はなく、華やかな照明に照らされた舞台に立つ姿を、疑いもせず信じた。
しかし、当時は今ほどインターネットが普及しておらず、漫才師になるための情報がほとんどなかった。どうすれば漫才師になれるのか、どんなルートがあるのか、まったく分からなかった。
「目標」ではなく、「夢のまた夢」。そんな感覚だった。だから、漫才師になると堂々と宣言することもできず、仕方なく大学へ進学した。ただ、東京へ出ることで夢に近づける気はした。
とはいえ、東京に出てからも夢へのアプローチにはとても時間がかかった。NSC(吉本総合芸能学院)に入るまでに6年。その間、映画館でアルバイトをしながらネタを作り、映画やドラマを観て研究し、エキストラや役者のレッスン、フリーでのお笑いライブ出演など、できることは何でもやった。
運命の扉が開く
2006年、ようやくお笑いの事務所に所属し、舞台と本格的に向き合うことができた。
ネタの作り方、練習方法、お客さんの増やし方、礼儀作法。芸人として必要なすべてをここで学んだ。
芸人として活動した約8年の中で、2006年は最も忘れられない年だ。夢にまで見た漫才師への第一歩を踏み出した年だったから。そして、初めて漫才の楽しさを本当の意味で味わえた年でもあった。
2007年春。僕は13期生として東京NSCに入学した。24歳だった。今でこそ珍しくないが、当時の感覚で言うと24歳での入学はかなり遅かった。だから、最後のチャンスのつもりで飛び込んだ。
NSCでの毎日はすべてが新鮮だった。独学にも限界があり、基礎を学べたことはとても大きかった。
授業はネタ見せを始め、発声やダンスなどが用意されていた。その中でも、ネタ見せの授業では講師の厳しい言葉が飛び交い、空気はピリピリしていた。
少しでも何かやらかせば即クビ。今のコンプライアンスの感覚で言えばアウトなことばかりだった(笑)これまじね!
それでも、毎日漫才が楽しくて仕方がなかった。生活は成立しないくらい貧乏だったが、漫才が好きでたまらなかった。
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吉本での活動スタート
2008年、念願の吉本興業に所属した。
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劇場では、たくさんの先輩方の漫才を袖や客席で学ばせていただいた。間近で本物の漫才を見られる環境。これほど贅沢な教室は、他にないだろう。
2011年に引退するまで、数えきれないほどの経験をさせてもらった。
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立ちたかったステージに立てたこともあれば、立てなかったステージもたくさんあった。悔しさも、歓びも、すべてが漫才を通じて刻まれた。
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夢を叶えることは、決して簡単ではない。結果として夢は叶わなかった。
それでも、漫才を嫌いになったことは、一度もない。
むしろ、年を重ねるごとに、漫才への想いは深くなっている。
そして、引退後の人生において芸人時代のトライアンドエラーは回収出来ている。つまり無駄ではなかった。会社員では決して見ることのできない景色を、僕は舞台の上から見せてもらった。
漫才に魅せられて、気づけば25年近くが経った。
きっと僕は、一生、この世界から抜け出せないのだろう。
この世で漫才師が一番かっこいいと思う。
深いぜ漫才。
漫才大好きだ!
これからも漫才ファンとしてたくさんの漫才を観て辛いことを乗り越えようと思う。
映像化への想い
いつかこのnoteを書籍化、映像化したいと、本気で願っています。
僕は芸人を辞めてからの10年間、言葉にし難いほど苦しい日々を過ごしました。
その闇の中でどうにか息をし続け、そして少しずつ光を見つけて解放されていった体験。
それを、自分と同じように苦しんでいる人たちに届けたいと思っています。
誰かが寄り添ってくれることで、人は必ず救われる。
そんな確信があります。
時には冗談めかして、「吉本さん、お願いします!」なんて言ってます。
けれど、心の中では真剣なんです。
僕のnoteがもっと多くの人に届き、広がることで、苦しむ誰かの心が少しでも軽くなる手助けになれば。
そんな期待と願いを込めて、これからも書き続けていきます。
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