いい人ってなんだ【記録・雑感】いい人すぎるよ展レポ
デザインチーム「entaku」主催の、展示「いい人すぎるよ展」「やだなー展」にいってきた。
「いい人」という言葉から想起する様々が面白かったので、二展示合わせてレポを書きます。
……
いい人って、なんだ?
誰が決めるんだろう?
何をしたらいい人ってことになるの? それってホントにいいことなの?
そんな小賢しい疑問が、私の出発点。
たぶん、私たちは、この展示を見て、「いい人」を決めてしまうこともできる。
ではなく、そこからもっと思考を広げられるはず。
そんなことをモニョモニョ思った、昼下がりの記録です。
では、いざ、あなたの「いい人」とは?
いい人すぎるよ展
10月はじめ、X(Twitter)でのバズをきっかけにフォロワーが気になっている様子。
私も気になったので、声をかけて一緒に行くことになった。
それぞれ、
「『いい人』に満たされた空間に行くことで『いい人になるぞ』になりたい」(フォロワー。普段から心根がいい。)
「現代の『いい人』観の考察とかマーケティングの勉強ができそう」(私。仕事がユーザーエクスペリエンス設計。)
という気持ちだった。
会場のある表参道で、カフェを満喫して、入場。
まず、入口が道路側にあった「いい人すぎるよ展」に入ると、「後味的に『やだなー展』に先に行けばよかった」などと話す。
これも日常の「やだなー」かもしれない。あるいはそこまで演出かもしれない。
さてはて、「いい人すぎるよ展」入口には、「中腰で写真を撮る人」のフォトスポットがあった。
確かに、大人数での写真撮影で三列以上になったとき、中腰にならざるを得ない真ん中あたりで笑っててくれる人には日ごろから感謝だ。いい人というか、毎回必ず発生するので感謝の気持ちを忘れないでいたい。
入って早々、左に続く展示の前に、蛇行する列ができている。
Xのバズがきっかけで予想以上に混雑しているらしく、ごちゃつく会場をスタッフが整理していた。
と、スタッフかと思えばプラカードを持ったお客さんが。
お客さんが「スタッフの代わりに看板を持ついい人」になることで、列を整理しつついい気持ちになる、という仕掛けになっていた。
「いつも綺麗に使っていただきありがとうございます」って張り紙を張るとトイレが綺麗になる話みたいだ。
なお、主催の明円卓さんは、
とXで発言している。
スタッフが足りなくならなくても用意する、「わざと」の展示かと思っていたのだが、本当に人が足りない日用に始めたもののようだ。
お客さんたちはこぞって看板を持って記念撮影をしていた。会場に入って早々、さっそくいい人になれるとあってみんな笑顔だ。
列が進み、「体験展示・『いい人診察室』」の順番がやってきた。
プラカードと似て、「いい人診察室」では、来場者を全員強制的にいい人にならせてくる。
医者に扮したスタッフが、「いい人すぎるよ」という診断を出してくれるのだ。
「賢い」と思ったのは、二人連れで入っても両方を「いい人」にする仕組みが用意されていたことだ。
診察室になぞらえた扉をくぐると、一つしかない患者用椅子に医者が向かい合っている。
椅子に座った方の名前を聞くと、医者は深刻そうに「あなたにはいい人の疑いがあります」と告げてくる。いい人陽性反応らしい。
病状を説明したあと、医者は次に、立っているもう一人に「椅子を譲ったあなたですが、あなたもかなりいい人の疑いがあります」と告げる。
めちゃくちゃ笑った。
幸せ空間である。
なお、医者は「いい人」相互の自覚を促すため、お互いにお互いが思う「いい人なところ」の指摘をさせた。
三人連れなどの脚本もあるのだろうか。ちょっと気になる。
そうして早速「いい人」になっちゃったところで、他の展示を見に行く。
Xで話題になっていた、たくさんの「いい人」が張り出されている。
楽しい展示なのだが……
ここで私が、気になっていた話をお披露目する。
「バズってたツイート(ポスト)でもさぁ。『会議○時からでどうですか?』って訊いたら『大丈夫!』の返事と一緒にzoomのurl送ってくれる人、ってあったけど。
正直、そんなに急がなくても良くない?と思ってしまう。時短イコール善!のような社会を感じるのはつらい……」
ああ〜、と唸ったフォロワーの返事はこうであった。
「『いい人』にもいくつかあるね。それは『仕事ができる人』。他に『感性が良い人』とか分類できそう」
そう、「仕事ができる人」が「いい人」なのか?
私はこれが非常に気になっていた。
写真の例でも右下の、遅刻の時間を詳しく伝える人は、確かに受け取ると気遣いに微笑ましくなるが……逆に考えると、今ってみんなそんなに、秒単位レベルで予測ができないとカリカリしちゃう社会なんだろうか?
これは私が、最初にこの展示を見つけた当初から気にしていたことである。
zoomのurlを出してくれたら嬉しいけど、それが大きなパネルで展示される社会って。
やってない人が微妙な罪悪感あるし……。
このモヤモヤを抱えて見渡すと、私には現代の「少しでも効率よく物事を片付けることを良しとする価値観」が、ミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる灰色の男たちのものに見えてくる。
仕事できない人目線と言われればそうなのだが……。
ただ、
「だからさっきの診察室でも、『自分を大事にしてくださいね』って言われたよね」
そう。展示の側も、「いい人」に含むところがあるのである。
「『いい人すぎる』人は、我慢しすぎる傾向にあります」
白衣のスタッフは眉を下げた表情でそう言っていた。
「いい人」を展示しながら、「いい人」に少し肩の力を緩めてもらう。「いい人すぎるよ展」は、そんな裏コンセプトも持っていた。
「あくまで、いい人『すぎる』なんだよね。ここまではしなくていいっていう。だから、『当てはまってないから自分はいい人じゃないんだ』とは思わなくてもいい」
「『当てはまってなくても悪いわけじゃない』、これこの展示を見るのに大事そう」
そんな会話をした。これが話せる同行者でよかった〜!!
「いい人」を求める現代社会の風潮への違和感までは、なくなることなく残ったが、「いい人」のハードルを下げることができた。
「これ私やってる!」「これは周りの人にしてもらった!」と、展示を見て回るのは楽しかった。
やだなー展
続いて、隣の棟で開催の「やだなー展」に出かける。
入って早々、さっき「いい人すぎる」展示にいたスタッフが「やだなー」の例にもいるのが面白い。
見ながら、「これは丁寧だな」と唸ったのは、「いい人」は「人」を対象に例示しているのに対し、「やだなー展」はほとんど、「時」「もの」「こと」を対象にしていたことだ。
あくまで日ごろの「やだなー」で悪いのは「人」ではない。
そんな感覚に至らざるを得ないシチュエーションが悪いのだ。
この考えは、企画意図を見れば明瞭だ。
「やだなー展」は、コンセプトとして
「でも『やだなー』って、
実は企画をする時のヒントになるかも?」
を挙げている。
「やだなー」は、商品を生む。
「排水溝洗うのってやだなー」と思えば、排水溝クリーナーが生まれるし、
「Windowsってダサくてやだなー」と思えば、Macが生まれる。
変えようのない人を嫌がるのではない。
変えられる「仕組み」「商品」「シチュエーション」を変革していこう。
そんなデザイン意識が感じられた。
何を隠そう、私もUX(ユーザーエクスペリエンス。ユーザーがアプリやホームページを使うときに感じる体験のこと)デザイナーとして働いたことがある。
日常の違和感は、すなわち日常をもっとよくするヒントなのだ。
いい人相対論
さて、そんなこんなで、二つの展示を見て思ったことがもう一つある。
それは、「いい人すぎるよ」と「やだなー」は、簡単に入れ替わるということだ。
「いい人すぎるよ展」の中に、
「カラオケでみんなが盛り上がる曲を入れてくれる影のDJ」
というものがあった。
めっちゃありがたい人だ。場が盛り上がると思う。
でも、実は短時間で早く帰りたい人が紛れていたらどうだろう?
また、「普段は言えない曲をそっと紹介し合うのが好き」な人は?
「やだなー」と思いそうな参加者を思い浮かべてみると、枚挙にいとまがない。
私たちはいくつかのカラオケに関する例を見ながら、
「でもこれ、コミュニティ次第だよね〜」
と言い合った。
そう、どんな人がいい人かはコミュニティによって変わる。もっと言えば、個人や場面によって。
そのひとつの象徴に、「やだなー展」に、
「『いつもどんな音楽聞くの?』と聞かれる時」
というものがあった。
カラオケの例で言うと、あなたがどんな曲で盛り上がるか、盛り上げ上手は事前に知りたいかもしれない。
でも、あなたは言いたくないかもしれない。
言いたくない、の「やだなー」も、あなたの日常を心地よく過ごすために、認められるべきものだ。
たくさんの人がいる社会で、「いい人」は、「当てはまらなくても悪い人じゃない」前提であってほしい。
そして「やだなー」は、たとえ少数派でも、認められる世界であってほしい。
帰り道に、そんなことをしみじみと思った。
展示を見た私の「やだなー」と「いい人すぎるよ」
「展示見て出てくると、歩きながらあらゆることを『いい人すぎるよ』と『やだなー』で色分けしてしまう」
「わかる」
表参道駅へと戻りながら、ウィンドウショッピングをする私たちの会話である。
最後に私の展示を通した「やだなー」と「いい人すぎるよ」を、もしかするとどこかで新しいことや同じことをやろうと思う誰かに、ぜひとも提供したい。
まずは後味よくない「やだなー」から。
やっぱり、私の社会へのモヤモヤは残った。
ある行動を取る人を、「いい人」と褒める社会へのだ。
今思うと「いい人すぎるよ展」も、「優しい人!」といった漠然とした性質ではなくて、「こんなことをする人」と、「行動」にスポットをあてている、繊細な企画だ。
逆に言えば、そうでもしないと「『いい人展』の条件を満たしていない、お前はダメ!」と、刃になりかねない風土があるのではないかと思う。
また、「行動」にしたって些細でふふっと笑うような、マイナーな出来事が多いのも印象的だ。
なんとなく、「空気を読む」ものが多い気がした。
これを率直に、「空気を読んでくれる人」としてしまうと、絶対に反発が生まれるのだろうなと薄々思った。
そんな社会に雁字搦めになり、そんな社会の中で「いい人」を模索する展示。
それはなんとなくカルマ的ではないだろうか。現代への照射として見るとそんなふうに感じる。
一方、明るい話。
来場者を整理しているスタッフに、「いい人すぎますね!」と言われた。
スペースに映える黒い衣装が素敵だったのを伝えたのだ。
たぶん、スタッフもすぐに「いい人すぎますね!」が出てくるくらい、「いい人」に触れまくったのだと思う。
体験展示ブースで医者の役をしているスタッフなんか、一日じゅう、来場者がお互いに説明するいい人なところを聞き続けているのだ。交代はあるだろうけど。
社会が業(ごう)だろうが何だろうが、心地いい瞬間を増やそうという人の気持ちは、単純に嬉しい。
それは多くの場合、お互いを回って人を少しずつ幸せにする、と信じたいし、私もまた、自分が信じたいもののために振る舞えばいい。
私たちは、この展示を見て、「いい人」に頷き、素直に優しい気持ちになることもできる。
または「やだなー」を胸に、どうやったらもっといい社会にできるのだろうと考えることもできる。
両方が展示されていたことが企画としてすごい。
日ごろのあたたかな気持ちも、「やだなー」も、平等に受け止める。
素直な感謝と気づきを両立する。
たぶん私は、そんな「いい感じの人」になりたい。