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捨子にまつわる民間信仰


1.橋の下から拾われてきた子供たち

子供の頃、「お前は橋の下から拾ってきた子供なんだよ」と実の母親から言われたことがある。幼かった私はその言葉を真剣に受け止め、「僕はお母さんの本当の子ではないんだ。僕はよそのうちの子なんだ」と、ひどく思い悩んだことを今でも覚えている。

しかし、最近になって似たような経験をした人は意外にも多いのだということに気がついた。不思議なことに、橋の下で拾ってきた子供というこの奇妙な言い回しは、世代や土地を超えて広く全国的に見られるようなのである。

考えてみれば、昔話に描かれる桃太郎や瓜子姫といったキャラクターも、川から流れてきたところを老夫婦に拾われた捨子という点で共通している。日本神話では、イザナギとイザナミとの間に生まれたヒルコという神が、不具者だったという理由で芦の船に乗せられ、オノゴロ島から流されたという記述がある。

日本では古くから、川や海といった水まわりを中心とした捨子・取子の伝承が根付いており、それが現代においても日本人の深層意識に影響を与え続けているのではないか。以下では、柳田國男らの文章をもとに捨子と取子という日本の風習について考えていきたい。


2.捨子と取子という風習

日本民俗学の父である柳田國男は、岩手県遠野地方で収集した捨子・取子という風習について次のように報告している。

年回りの悪い児は捨子にするとよい。まずその子に雪隠の踏張板の下を潜らせた後、道違いに行ってちょっと棄てる。勿論、始めから拾う人の申合わせができており、待っていてすぐ拾ったのを、改めてその人から貰い子をする。こういう子供は男なら捨吉、捨蔵、女の場合お捨、おゆて、ゆてごなど、捨という名をつけることが多い。

(柳田國男 『遠野物語拾遺』二百四十七)

生まれた児が弱い場合には、取子にして、取子名をつけてもらう。一生の間、取子名ばかり呼ばれて、戸籍名の方は人がよく知らぬということも往々にあった。佐々木君の取子名は、若宮の神子から貰ったのが広といい、八幡坊から長助、稲荷坊からは繁という名を貰っておいたと言うが、しかしいっこう強くもならなかったと言って笑った。

(柳田國男 『遠野物語拾遺』二百四十八)

古くから「七つまでは神のうち」といわれるように、子供というものは七歳になるまでに、あっさりと死んでしまうという認識が昔は一般的であった。しかし、幼い子供を護ろうとする親心は時代を越えて普遍的なものである。

親は子供を魔の物に取られないように、あえて子供を粗末に扱う振りをした。赤ん坊が「可愛くて大切な存在だ」と魔物に知られると、その命が危うくなる。だから、意図的に子供を「疎ましい存在」であると、魔物に思い込ませて欺こうとしたのである。捨子・取子という風習は脆く幼い命を護るための仕掛けであり、これは葬送儀礼における「逆さ」の概念と通じていることが見てとれる。


3.七五三との関係

続けて、『遠野物語小事典』から「取子」について記された箇所を引用してみよう。

一度捨て子にして拾うという呪術的演技をする風習で、全国的に行われていた。昼は百姓、雨の日と夜は祈祷師と2つの顔をもつ百姓山伏たちは、村人たちと同じ心情の持ち主だけに、その加持祈祷も具体的で説得力をもっていた。取り子なども、伝統的な習俗に彼らの密教のカラーを上塗りしてできたものであろう。抵抗力のない幼児期をどうやって丈夫に育てたらよいか、子育ての親たちの苦労は時代をこえて共通していた。遠野では、虚弱な体質の子は便所のふんばり坂の下をくぐらせた後、道ちがいに捨て、前もって申し合わせた人がこれを拾い、その人から改めて親が貰いうけ、男なら捨吉、捨蔵、女なら、お捨、おゆて、ゆてごなど捨という名前をつけることが多かった。山伏はこの行事に参加してきた。取子にする儀式は土蔵、あるいは座敷道場という護摩壇のある部屋で子供を坐らせ、息災・増益の護摩祈祷をした。カミと子を結縁させ、実の親子でない者が親子になって弱い子供を保護し、安全に育てるためだった。そして、このとき取子名をつけた。名前を代えることで子供の体質まで変えられるというのである。明治生まれの老人たちは学童期にも成人してからも取子名で通し、本人でさえ戸籍の実名を知らない例が多く、名前に関しての珍談・奇談を残している。女の子はオシラサマや巫女の取子になった例もある。(『拾遺』78・247・248)。

(野村純一ほか『遠野物語小事典』)

生まれた子供の無病息災を願って、山伏や巫女に祈祷をしてもらうという風習が昔はあった。遠野地方では生まれた子供は一度演技的に捨てられ、オシラサマの取子とするという呪術的な縁組が汎く見られていた。これは病弱な我が子に神と血縁関係を結ばせることで、その呪的霊力を子に得させようとする親心のためであった。

もっとも、生まれたばかりの子供と氏神との間に血縁関係を結ばせるこの奇妙な風習は、遠野地方に限らず、全国的に行われていたようである。例えば、現代でも全国的に行われている七五三という行事は、こうした取子文化と深い関わりを持っている。以下では、『人生儀礼事典』より七五三について書かれた箇所を抜粋する。

現在でも都市を中心として、七歳の女児が晴れ着を着て氏神や有名な寺社に参拝することが多い。この祝いのために母親の里方から着物、袴、帯、親戚から長袖、扇子、草履、ハコセコなど嫁入り同様の衣装が贈られ、これを着て屋敷神や氏神に参り、帰りには飴を買ってきて配っている。「七つ前は神のうち」「子供は七つの坂を越すまではわからない」などといって、かつて男女とも七歳は幼年期最後の重要な年齢と考えられていた。栃木県のある地方では、体の弱い子はトリコといい、鬼子母神、岩船地蔵・延生地蔵など各地の地蔵、呑竜様に「七歳か五歳まで弟子入りさせます」といって、男女とも七歳あるいは五歳まで坊主頭にしておくことがあった。これを七つ坊主、五つ坊主といい、女の子の場合は男の服装をさせておくこともあった。

(倉石あつ子ほか『人生儀礼事典』七歳の祝い)

前にも少し触れたが、食料事情の悪かった時代では「七つまでは神のうち」といわれ、生まれた子供は七歳になるまでに死んでしまうことがほとんどだった。江戸時代には七歳以下で死んだものは葬式も出ることはなく、またそうした事情もあってか幼児の間引きも頻繁に行われていたようである。

江戸時代前期、徳川綱吉が発令した生類憐れみの礼は、一般的には悪法として知られているが、実際は犬や馬などの動物の保護だけではなく、捨子や傷病人の保護をも目的とした成文法であった。裏を返せば、このような法令で捨子の禁止を呼び掛けねばならないほど、当時の子供の立場は非常に危ういものだったといえる。

七五三は神のうちとされていた子供たちが、社会集団の中で一個の個人であると認められるための一種の通過儀礼だった。七五三の祝いをすませると葬式も行われ、位牌にも◯◯童子と書いて貰えるようになるのである。

4.他文化におけるイニシエーションとの類似

生まれたばかりの赤ん坊に、何か嫌なことをすることで魔物を退けようとするという捨子のような民間信仰は、これに限らず国内外に広く見られる。例えば、国内でもお宮参りの際、生まれた赤ん坊の額に墨で「犬」や「✕」と書いたりする地域がある。他にも、誕生と同時に悪口を言いまくったり、箸で汚物を食べさせる真似をさせたりなど、似たような事例には枚挙に暇がない。

国外で類似した事例を挙げるなら、最も有名なのはギリシャの唾吐きだろうか。ギリシャでは生まれたばかりの赤ん坊に唾を吐きかけて祝うが、これは唾に悪魔を退ける力があるという民間信仰が、現代でもギリシャ国内で広く根付いているためである。

もっとも、唾が邪視よけの力をもっているとされることは、ギリシャに限らず、世界各地の信仰に見られる。東アフリカのいくつかの社会では、祝福する相手の左手に唾を吐きかける。日本でも、狐や狸に化かされそうになった時、眉に唾をつけたというし(これは現代でも眉唾という言葉として残っている)、怪我をした部位に唾をつけておくという民間信仰も、かつて唾に呪的な力を信じていた時代の名残かも知れない。

話が少し脱線してしまった。本筋に話を戻そう。『世界の奇習と奇祭 150の不思議な伝統行事から命がけの通過儀礼まで』という本の中では、インドで行われている赤ん坊投げという風習について紹介している。長くなるが、出来るだけ中略をせずに引用するとしよう。

新しい命が誕生すると、ほぼすべての文化において、生まれたばかりの赤ん坊は何か嫌なことをされる。

▼水に沈められる。
▼ラビに、ナイフを男性器にあてられる。
▼変な顔をして笑わせようとする親族のあいだを、たらい回しにされる。

だが、オートバイを操るスタントマンや空中ブランコ乗りが味わうほどのスリルをともなう伝統は、それほど多くない。そんな命がけの危険な慣習が、毎年十二月の第一週にインドの一部で行われている。そこでは、神に対する信仰心を示すために、赤ん坊を屋根から放り投げるのだ。(…)この儀式を行うことで最もよく知られているのは、ソーラープルの町にあるバーバー・ウマル・ダルガーというイスラム教寺院だ。この寺院は、約十五メートルの高さのところにテラスがあり、赤ん坊はそこから投げ落とされる。そして、イスラム教徒とヒンドゥー教徒が広げてもつ布で受けとめられる。重要なのは、赤ん坊を怖がらせて、思いっきり泣く方法を学ばせることではないーそれは単なる副産物だ。赤ん坊投げは、その子の一家に健康と繁栄をもたらすと信じられている。(…)赤ん坊投げの慣習は、幼児の死亡率が驚くほど高く、医療の手だてがほとんどなかった時代に、ある無名の聖者(おそらく歪んだユーモアセンスの持ち主だろう)が人々に希望を与えるために言い出したと信じられている。この聖者は親たちに、聖堂を建ててそのてっぺんから子供を投げるよう提案した。このうさんくさい行為に人々がなんとか同意して言われた通りにすると、奇跡的に一匹のヒツジが現れ、空中の赤ん坊を地上に届けてくれたという。その後の年月で、奇跡が赤ん坊を救ってくれるという人々の思いが、現実的なシーツにとって代わられたのだ。

(E・リード・ロス『世界の奇習と奇祭 150の不思議な伝統行事から命がけの通過儀礼まで』赤ん坊投げ 小金輝彦訳)

世界中で行われる赤ん坊に対する呪術的な行為は、実際的な虐待を目的としたものではなく、その反対に赤ん坊の無病息災を祈って行われていた。そのため、捨子や赤ん坊投げといった一見物騒で非人道的な風習も、実際には呪術演技的であり、子供の安全を前提として行われていることがほとんどであった。


5.終わりに

現代日本において、実の子供に「お前は橋の下で拾ってきた子供なんだ」と言い捨てる親たちもまた、無意識的にこれまで日本人が行ってきた呪術的演技を踏襲しているだけなのかもしれない。しかし、社会がこのような呪術的な行為を必要としなくなるにつれ、呪術的な演技も世間に虐待としか受け止められなくなっていく。現代において、親たちの「逆さ」の愛情表現は、親から「虐待」を受けていたという深刻な記憶、そうした爪痕を子供たちに残してしまう恐れがあるのだ。それは、もはや「祝福」という側面を失った「呪い」そのものといえるのではないだろうか。


【参考資料】

・柳田國男(2006)『新版 遠野物語 付・遠野物語拾遺』、角川書店
・倉石あつ子・宮田登・小松和彦編(2000)『人生儀礼事典』、小学舘
・E・リード・ロス(2021)『世界の奇習と奇祭 150の不思議な伝統行事から命がけの通過儀礼まで』小金輝彦訳、社原書房
・野村純一ほか(1992)『遠野物語小事典』、ぎょうせい
・宮本常一(2011)『宮本常一 歳時習俗事典』、ハ坂書房
・三津田信三(2021)『忌名の如き贄るもの』、講談社
・板橋作美(1991)「禁忌の構造 なぜミミズに小便をかけてはいけないのか」、『東京医科歯科大学教養部研究紀要』、21巻

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